母との別れ

2022年の夏は私にとっては忘れる事ができない夏になってしまった。

夏の大阪行きを断念した私は、下の娘と一緒にイタリアのトスカニーを旅行していた。

中世の都市シエナを訪ね、壮麗なシエナ大聖堂の中を魅入っている時に、私は急に重力を感じた、と言うか何かに押さえつけられたような、次元が変わったような感覚を覚え、思わず娘に「なんか変な気分、これ何?」と聞いていた。

その日はなぜか広場でお茶をしながら、赤ちゃん、子供、若者、老人といろんな人を見て生と死について考えをめぐらしていた。

その夜の明け方、母と会い、2人でハグをしたような感覚を覚えた。

夢だったか、現実だったか、今ではもう記憶が曖昧だ。

でもシエナ大聖堂の中での体感と、母の映像を見たのは紛れもない事実。

母は、私がイタリアに旅行している間に亡くなっていた。悲しいことに孤独死だった。

急いで大阪に戻る事になった私「もしこの夏私たちが大阪に戻っていたらこんな事にはなっていない、母はまだ生きていたはず」と後悔ばかりが心に浮かんでくる。

3年ぶりの大阪は、母がもうここに居ないと言う現実を除いては、いつもと同じで、全く変わっていない。でもそれが時よりとても心を苦しませる。

お葬式が無事終わり、母の身元の片付けを始めると、じつに多くのものを見つけ始めた。

なんでも取っておく習慣があった母は、昔私がおばあちゃんに送った手紙や、私の父親が私に書いた手紙も残しておいてくれ、これらが私の心を癒してくれる。

最後の3年間は、コロナ禍の中とても寂しい思いをさせてしまったけれども、母の残した写真を見ていると、母の人生はいろんな経験に満ちた人生だったと感じ、私の中で母の死を嘆くのではなく、彼女が辿った人生を祝福しようという気持ちが強くなってきた。

母がヨルダンのペトラに行った時や、アルゼンチンのブエノスアイレスのカフェで綴った旅日記、関西外国語大学ラテンアメリカ、リレー講義を受講している時に書いていたノート、若い時に弾いていたマンダリンのコンサート、年末にベートーベンの第9をコンサートホールで歌いに行った時の写真と、好きな事を充実させていた彼女の人生が、ありありと目に浮かんできた。

いろんな経験をしてきた母、そんな中でも母にとって最高の時間だったのは、60代後半にJICAのシニアボランティアとして、シリアのダマスカスに2年滞在した事。ダマスカス職業訓練、服飾専門学校で、洋裁を教え、余暇には学生を自宅に招待して、生花を教えたり、在シリアの日本人の人々といろんな交流をした事だと思う。

もし母が今の時代に生まれていたら、もっと広い世界に早くから飛び出て、いろんな事を成し遂げていたに違いない。昭和12年生まれの、日本人女性に生まれた母にとっては、時には日本的価値観は息苦しかった時もあったと思う。

弟がお葬式の日に「お母さんの意志は3人の孫が受け継いでいきます」と母に送った。

まさにそう、今もう母の孫たちは、母がしたくてできなかった人生をすでに歩んでいる。それを母はあちら側から応援してくれているはず!

戻ってきたロンドンは、エリザベス女王の追悼に満ちていた。

人生は一方方向に進んでいき、誰もがいつかはこの世を去ると言う事がますます実感される。

人生を大切にして生きよーっと、日々の時間を大切にして生きていこう、それが母が教えてくれている事。ありがとうママ、84年の人生、おつかれさまでした。

今度生まれ変わっても、私のママでいて欲しいと言ってたけれども、次は私の娘として生まれ変わってきて欲しい、そして好きな事を存分にやらしてあげ、思っきりかわいがって育ててあげたい。

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