アイスコーヒー

最近、近所にお気に入りのカフェを見つけて、友達と会う時はもっぱらそこに行っている。

ギリシャ人が経営するそのカフェ Ariston Hellenic Eateryは、ロンドンでは珍しく外にテーブルがいくつかあり、店内もガラス張りで、白と黄色が基調の、すがすがしい気持ちにさせる空間だ。

なんと言ってもコーヒーがとても美味しい。

私はそこのアイスディカフ ホワイトアメリカーノが大好きだ!

日本の夏の定番アイスコーヒーは、ここ最近のロンドンでも人気がたかまってきた。

おそらくStarbuksがフラプチーノを売り出した1995年あたりから、アイスコーヒーの人気が高まってきたのでは?

でもスペインなんかでアイスコーヒーCafè con hieloを注文すると,コーヒーと氷が入ったグラスが2つ出てきて、あとは自分でそれらを混ぜてアイスコーヒーを作る。アイスを入れてもなんか生温いコーヒーは、決してアイスコーヒーとは呼び難い・

そんなこともあって、ギリシャのカフェで「アイスコーヒーはできますか?」と聞いたら

「勿論、僕らはみんなギリシャ人ですよ!」と返してきた。

その自信に満ちた返答に、もしかしたらアイスコーヒーはギリシャ起源かなと思い、調べてみる事にした。

ギリシャのアイスコーヒーはフラッペとして誕生した。1957年にネスカフェのギリシャ代表取締役が偶然に作ったことが始まりだそう。インスタントコーヒーのネスカフェ、お水、砂糖、練乳をシェーカーで混ぜて作られたそうだ。

これって私が子供の頃、家で母がよく作ってくれたアイスコーヒーと同じや!

歴史上にはじめてアイスコーヒーが登場するのは、1840年フランスの植民地だったアルジェリア。

Mazagranと呼ばれてるアイスコーヒーは、コーヒーシロップ、冷水と砂糖を混ぜたもので、Mazagranの戦闘中、フランス人の軍人たちが地元の人が飲んでいたコーヒーからアイデアを経て、作られた。その後パリに戻ってきた軍人が、Mazagranをパリのカフェに教えて広まっていったと言われている。

日本では1920年、大正時代からアイスコーヒーが飲まれてた説があり、明治時代には喫茶店のメニューで氷コーヒーが記載されていたらしい。昔は瓶にコーヒーを詰めて、井戸水や氷につけて冷やすという方法で作られていて、その後ダッチコーヒーと言って、水で時間をかけてコーヒーを抽出する方法が普及していったと言う。

昔、大阪ではアイスコーヒーの事を冷コーと呼んでいたのを思い出す。

確かに今では、Starbuksを始め、いろんなコーヒーチェーンが全世界展開しているし、コーヒーはテイクアウトにおいても一番売れるドリンクなので、特に夏場のアイスコーヒーの種類は、アイスモカ、アイスモカフラプチーノ、アイスキャラメルフラプチーノ、アイスディカフオーツラテなど色々と種類が豊富になっている。

コーヒーの種類が豊富と言えば、友人のアメリカ人の知人がイタリアにいった時「ドライカプチーノ1つ」と注文したら、イタリア人のバリスタに「はっ、今なんていったん、何それ」って聞き返されたらしい。

コーヒーの国イタリアでは、カプチーノはお昼過ぎたら飲まない、とかラテと頼んだらミルクだけが出てくるとか、独自のコーヒー文化がある。

アイスコーヒーも国によって、それぞれ作り方、好みの味付けが違う。ギリシャやイタリア以外にもアメリカ、オーストラリア、ドイツ、そしてタイ、ベトナムでも独自のアイスコーヒーが作られている。

でも私は日本のアイスコーヒーが一番好き!イギリスにはないけれど、シロップを入れて、クリームといただくアイスコーヒー。日本に帰れない今年の夏は、あのアイスコーヒーを飲むことができないけれども、それに近い味になるよう家でアイスコーヒー作りに挑戦してみたい。

はじめて聞く採点スト

今年のイギリスは本当にストライキが多い。

私が覚えている限りでも、電車にバス、ロンドン地下鉄、郵便局、公立の小、中、高校の先生、医者、看護師及び医療関係者、救急車、ヒースロー空港と入国管理局と様々な業界でストが行われてきた。

国民はというと、少々生活が不便になっても、物価高騰の中、給与はそれに比例せずに上がっていない実情を踏まえて、スト決行には多少の理解を示していたはずだけれども、こう度々ストをされると、いいかげんうんざりしている人が多いはず。

そんな中、当初はストライキを検討していた消防車は、いざ問題が起きた時に直面するだろう状況が、あまりにリスク高と判断し、ストを断念した。有難い事だ!

でも今回大学の教授、講師が授業のストライキに加えて、卒論、論文の採点をしないというストライキ(No marking and assessment boycott )を決行した時、私は本当に頭にきた。

私の次女がまさに被害者の1人だからだ!

彼女も長女も、大学在学中にストで講義が幾度もキャンセルされた経験を持つ。その度に「残念やけれども、大学の教授の年金制度はあまりにもお粗末なので、私らはこのストを支持するわ」と彼女達はストのたびに大学側を擁護してきた。

でも今回は違う。さずがに卒論の採点を拒否するのはひどすぎる。

私の娘は、ほぼ毎日朝早くから大学の図書館に通って卒論に力を入れていた。おそらく彼女の人生の中で一番熱を入れて勉強していたはず。それなのにその努力の結果が今も未来も採点されないなんて、残念で仕方ない。

イギリスの大学では、卒業時に授与される卒業証書には、学位である最終成績が記載される。

成績は上位からFirst,Two-One,Two-Two そしてThirdと区分され、頑張ってきた学生は勿論皆Firstを目指しているし、就活時にも有利になるとみなしている人が多い。

娘の場合、卒論意外にもう一つエッセイが採点されない事になり、大学側が「申し訳ないでが、今までの成績はFirstグレードであったので、卒論が採点されない代わりにFirstで卒業することのなります」と伝えてきた。

勿論Firstで卒業は有難いものの、あんなに力を入れて書き上げた卒論が全く採点されない事にはがっかり。卒論は3人の教授、研究員者が採点する事になっており、娘の場合そのうちの2人がストに参加したために、今回採点不可になってしまった。

反対に卒論の内容がFirstに値するほど素晴らしいものでも、ここまで採点された成績がTwo-Oneの人はTwo-Oneで卒業する事になるのも本当に残念だ。

エジンバラ大学で社会学を専攻している次女の友人も、先週大学側から連絡が入り「教授の採点ボイコットストライキの為、卒業時の学位には最終成績は明記できません」と言われたそう。

その友人も今まで一生懸命に学んできただけに、すごく落胆しているらしい。

強烈な方法を取らない限り、ストを起こしても体制側は妥協してこないかもしれないが、高い授業料を払って、それもほどんどの学生が学生ローンを借りて払っていて、コロナ禍はオンラインでしか学べなかった学生達が、なんでこんな被害にあわされるのか、本当にこの夏卒業する学生には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

次女は、大学の授業、採点ボイコットのスト以外、ドクターのストライキでも被害を被った。

彼女は靭帯を切って、7月中旬に手術が入る予定だったけれど、1度目は病院側の事務のミス、2度目は担当医がストライキに参加する為に、2度も手術日が変更させられている。

私の知らないところでも、きっと多くの人がストの犠牲になっているんやろうね。夏休みになると、また航空関係者のストが出て来るかも?

とにかくこれ以上、ストライキを強行する前に、解決案が双方で見出される事を願うのみ!

これから就活

今月の初め、次女は卒論を提出し、最終試験も無事終わらせ、まだ結果は出ていないものの4年間の大学生活を終わらせた。

人生初の猛勉強だったので「しばらく休業するよ」と娘は宣言し、彼女はゆっくり休むつもりでいる。

今年の初めに大怪我をして、その手術が先にまっていることもあり、就職活動にも本腰をいれる気になれないようだ。

でも今までのようなルーティンがなくなり、「仕事はどおするん?」といろんな人に聞かれるので、卒論のストレスが消えたと思えば、今度はこれからの仕事や人生の選択の事を考え容易にリラックスはできないらしい。

そう彼女には就活が待っている。

イギリスでは大学、高校卒の新規採用者の入社日が4月1日、なんていうのは別世界の話。日本のように大学、高校在学中に就活をおこなって、卒業後すぐに就労なんていう体制がある国の方が珍しいのでは。

イギリスで私が見てきた限り、大手企業で働きたい人は、大学2年生の夏休みなんかにインターンシップを取って働けるようにして、うまく企業に気に入られれば卒業後に仕事のオファーがくるみたいだけれども、このパターンで仕事にありつける人はあまりいないはず。

次女はSNS、特にLinkedinを使って仕事の情報召集をしている。大学生の間から皆自分の学歴、ボランティア活動、アルバイトなどの経歴を登録し、それらを見た企業から直接スカウトを受けたり、求人情報を見つけ出す。

勿論イギリスにも大学卒業者対象に、実際的で面白いプログラムが存在する。

Graduate schemeと言って、各産業界が現場での実体験を通して将来の人材を育てるトレーニングシステム。銀行、農業、ヘルスケア、法律関係、交通機関、行政機関、教育といろんな分野が参入していて、大体1年から2年のコースで、これを終了すると即戦力として、自分がトレーニングを受けた業界で本雇になるだけでなく、いろんな企業にも評価されて、自分の可能性を伸ばす機会に恵まれる。

ただこれは競争率がとても高く、希望したから採用されるというものではない。

イギリスにおいて面白いなと思ったのは、将来弁護士になりたい人は、通常大学では法律以外の学問、歴史、文学、語学などを専攻し、大学卒業後にLaw conversionというコースを受講して、実際的な事を学んで弁護士の道を進む。

学生は就活で自分のコースのスポンサーになってくれる法律事務所を探し、うまくいけば、その会社が学費を払って、コース終了後にその企業で2、3年働くという選択をする。もちろん自分で学費を払ってコースを受けることもできるけれども、学費はかなり高額であるし、優秀な教授は企業がスポンサーにしている生徒を担当する傾向にあるので、できるのなら就活でスポンサー企業を見つける方が得策らしい。

それでも25歳の長女の友人を見ていると、大学を卒業してからほぼ2年後にはみんな希望の職についている気がする。

みんないろんな業界で活躍しているけれども、中には美術史を学び、大学院を卒業後、著名なアーティストのPRとして働き、その後転職して今は有名なアートギャラリーで働き出し、実力を認められて展示会の企画チームの一員として生き生きと働いている人もいるし、某新聞社の文化部の記者として、自分の好きな本、劇の批評を書いている友人、または警察官として、テロ対策本部で働いてる友人、高級取りだけれども、夜は毎晩22時ごろまで働いている銀行員の友人、夢だった医者になった友人と職種は様々だ。

私の次女は、早くから芸術関係の世界で生きる決心をしている。脚本家、演劇家、音楽プロジューサー、全てやってみたいそう。入っていくには難しい業界だ。でも1回きりの人生、好きな世界で生きていかないと後悔する。

しばらくは答えが見つからないかもしれないけれども、なるべくプレッシャーをかけずに近くで見守っていきたい、と母は思っている。

でも将来をちゃんと考えてる若者の姿はとても眩しくて、羨ましい。

着実に勉強をしてきて、夢に向かっている姿はとても頼もしく感じる。

どうかこの夏学業を終える若者達が、好きな道を切り開いて好きな仕事につけますように!

それぞれの戴冠式

この週末、英国ではチャールズ3世の戴冠式が行われた。土曜日が戴冠式、日曜日はストリートパーティー、祝日である月曜日は、コミュニティーでのボランティア活動が奨励されていた。

土曜日は、歴史的瞬間をひとめ見たいと、国内外問わず多くの人がロンドン市内にやってきて(なぜかアメリカ人が多い気がする)朝早くからパレードが通る沿道に並んでいた。

ヨークシャー出身の長女の友人も「今までは全ての出来事をテレビで見てきたけれども、首都に住む今はどんなイベントも逃さない」と張り切って、バッキンガム宮殿近くにかり出していた。

私はというと、天候も悪いし、自宅のテレビで戴冠式を見る事に決めた。国王になる儀式を見たいと言うよりも、誰がゲストとしてきてるのか、ハリー王子は大丈夫かとかミーハーなノリでのテレビ観賞。

ちなみに王政反対のオーストラリア人の夫は、頑として戴冠式を見ることを拒否。雨にも関わらず買い物に出かけていった。

この日、王政反対、共和政支持者はデモをしていて、何人かは逮捕もされていた。プラカードだけを持つ、静かなデモにもかかわらず、逮捕者がでた事に今疑問の声が上がっている。

王室が必要かどうか、これに対しては千差万別の意見がある。

戴冠式に割り当てられた莫大な費用(税金)を、医療関係者の給料にあてるべきと言う正論もある。確かに王族はみんな資産家なので、せめて戴冠式にかかる費用の半分ぐらいは払う事も容易にできたはず。でも伝統を重んじる人々にとっては、こんな提案は受け入れられない。

私としては、自分自身が選挙で選んでない、国民の意見を聞こうとしない政治家が自分の国の頭になるよりも、皇族、王族が象徴として国の頭でいる方がいい。チャールズ国王は、環境問題にも関心があり、いろんな意識が高い人で、国民感情を気にかけている人に見えるし、いい人との印象をうける。戴冠式前日の金曜日には「今週末は戴冠式を楽しんでください」と国王直々、ロンドン地下鉄でアナウンスをした。これってなんかとっても微笑ましい。

ただ、ダイアナ妃がいるにもかかわらず、カミラ夫人とずっと不倫関係にあった事を決して受入られない人がいるのも事実。「カミラが女王と呼ばれるのは許せない」なんて言う人も多く、私の同僚の中にも、カミラ夫人大嫌い人間がいる。

私としては、確かにダイアナ妃には気の毒だけれども、チャールズ国王とカミラ夫人は昔からずーっと好き同士で、そんな事実の中で、王室のしきたりのせいで2人が結婚できなかった事が、悲劇の始まりだったように思う。女王に任命された夫人と並び、チャールズ国王はすごく嬉しそうな表情をしていた。

日曜日はいろんなところでストリートパーティーが開かれていた。私は友人と集まり、夜一緒に食事をした。ストリートパーティーに参加している友達の写真を見ると、コンサートに使われるような大きなスピーカーで音楽をながし、路上ディスコパーティー状態になっていた。

でもほどんどの人は王政がどうのこうのと言うよりも、休みが1日増えた事に感謝しているはず。戴冠式を祝う為のストリートパーティーと言うよりも、みんな隣人や友人と楽しいひと時を過ごせるのが嬉しいはず!

今日はいろんなところで、地域のコミュニティーでボランティア活動を奨励していた。

私が働く学校でも「月曜日はなんでもいいからボランティア活動をしてください」と子供達だけでなく、父兄、卒業生までにも呼びかけてた。私は友人と公園に行って、ゴミ拾いをする予定だったけれども、最終的には断念。どれぐらいの人が本当にボランティア活動をしたかはわからないけれども、祝日に人助けを奨励するのが、なんともイギリスらしい。

みんなどんな思いを持っていたにせよ、それぞれの戴冠式ウイークエンドを楽しんでいたはず。

先週のメーデーの祝日に続き、3日間のおやすみは本当に有難い!

忘れていた夢

先日古くからの友人、イタリア人のGとF夫妻がロンドンに来て、Gとは11年ぶり、Fとは20年ぶりの束の間の時間を楽しんだ。

夫と一緒に彼らが泊まっているホテルのロビーに行ったものの、私の脳裏に浮かぶGとFは、最後にあった時のイメージのみ。だから20年間もあっていなかったFが目の前に現れた時は、さすがにその人物がFである事に一瞬気がつかなかった。ふさふさだったFの黒髪は、綺麗なシルバーグレイに変わっていて、あまりに時が経過していたことを実感!

GとFとの出会いは、私が当時通っていた英語学校。Gは私のクラスメイトで、私達はすぐに意気投合し、当時はまだGの彼氏であったFと私の夫と4人で食事をしたり、出かけたりして私達は親交を深めていった。

夏にイタリアに旅行に行った時は、Gの家族、Fの家族のおうちにご招待を受け色々とよくしてもらい、後には結婚式までも招待してもらい、お互いの長女が1歳の頃までは、私達は年に2度はGとFに逢っていた。

2人に出会った頃、彼らはまだ大学院生と大学生。いい成績で卒業するのが重視されているイタリアでは、何年もかけて卒業するケースがあって、Fがエンジニアの学位を取ったのは、確か彼がもう26歳ごろになっていた気がする。

そして今、Gは大学教授になり、Fは土木工学者としてイタリア警察で働いている。

2人は着々と勉強してきて、自分の好きな事でキャリアを積み、素晴らしく輝いて見えた。

当時の私は語学学校に通い、自由な時間を楽しんでいた。ただ地中海料理の専門家になって、料理の本を出版するのが夢で、Gのマンマにもいくつかイタリア料理のレシピを教えてもらったし、それに向けて私なりに努力をしていた。

だから先日Gに「最終的にお料理の本は出版できた?」と聞かれた時、その夢をまだかなえてない、というよりその夢を断念した自分を思い出し、私はちょっと情けなく、あ~いったいこの20年間何をしてきたんだろうと自責の念にかられだした。物事をコツコツと続けていく事の大切さ、これこそが自由を求めすぎてきた私にかけている事と心から痛感。

それとともに、自分がめちゃくちゃ地中海世界に憧れていて、今でもそれらの情熱は自分の中にあることを認識し、私が学んだ数々の美味しい地中海料理が脳裏にうかんできた。

「そうやあんなに美味しくて、新鮮で、健康にいいレシピを集めててんや」

私のイタリア料理の経験は、まさにGのマンマと Fのマンマの味が基礎になっているので、その後どんなに美味しいと言われているイタリア料理をいただく機会があったものの、2人のマンマ達が作る味に勝る味に、いまだかつて出会っていない。

Fがよく「僕のマンマは本当に料理が上手や、その中でも一番美味しく作るのは、豆のパスタPasta e fagioliや!」と言っていて、初めてそのパスタを口にした時は本当にそのおいしさに感動して、こんな料理を日本に紹介したいと強く思った私がいた。

Pasta e fagioliはフジィリ、マカロニ、短いスパゲティーなどいろんなパスタのミックスと、玉ねぎ、トマト、セロリ、ニンニクをオリーブ油で炒めたソース、よくゆでたお豆(Brolotti)水を加えて一緒に茹でた、レストランではあまりお目にかからないナポリの郷土料理。

人生でキャリアを築いてこなかった私は、その事を時より後悔してきた。けれども食には、特に地中海世界の食文化にはとても情熱を持っていて、それらに関していろんな事を学んできた。今回のGとFとの時間は、そんな自分がいた事を思い出させてくれた。

 

さあ久しぶりにPasta e fagioliを作ってみよう!そして出版にはこぎつかなかったけれども、自分が書き上げた原稿をもう一度見てみよう。

GとFと逢って、私の中で忘れられていた夢がまた蘇ってきている。

 

 

物価高はまだ続く

最近は誰と逢っても物価高の話になる。

特に基本的な食料品の値上がりがうなぎ上りで、毎回買い物に行って、あれっと感じる事が多くなった。

おとといも、近所にあるギリシャレストランのスブラキの(ギリシャのパンにチキンやポークのグリル、フライドポテト、サラダが入ったサンドウイッチ)値段が5ポンド99ペンス(約970円)から6ポンド99ペンス(約1100円)に急に値上がりした。ちなみに2年前は、確かまだ3ポンド99ペンス(約650円)だった事を考えればこの価格差にはびっくり。でも素材自体が値上がりしているから、こればかりは仕方がない。

先日もコーヒーとココアを注文しただけで、7ポンドは払ったし、ミルク、オリーブ油、卵など今まで価格の変動があまりなかったものが、着実に値上がりしている。友人は皆買い物をする時に以前よりちょっと気をつけていると言っている。

その上3月のイギリスは、スーパーの陳列棚からトマト、きゅうり、ピーマン、なす、ズッキーニが消えるという野菜不足に直面した。それらの供給先であるスペインや北アフリカが悪天候にみまわれた為、収穫に悪影響出たのが主な原因とされている。EU離脱後の英国では、今までポーランド人などのEUからの労働者に収穫の手伝いを頼っていた農家に、人手不足という新たな問題を作りだした。これに加えて光熱費の上昇、インフレが供給綱の不安定化を招き、野菜不足も物価高の一因になっている。

この状況の中、ニュースサイト、新聞といろんなところで経済的な献立て作りや、節約法を紹介した特集をしている。

節約メニューではソーセージとブロコッリーのパスタ、マッシュルームのパイ、ひよこ豆のカレーや缶詰を使ったレシピと色々あるけれども、いまいち食べたくなるようなレシピは見かけない。

事前に1週間の献立を決めて、セール品を利用して効率的で無駄のない買い物を奨励している人が多い中、ときにはご近所さんと協力しあって光熱費を節約しているケースもあった。

仲良しのご近所さんが、各世帯いつオーブンを使うかを順番に決めておいて、オーブンを使う世帯でご近所さんの分の調理を担当して、光熱費を節約しているという記事もあった。

我が家では、ペスカトリアンの、お肉を食べない夫がいるので、基本的には魚料理が中心になる上、和食を作ることが多いので、日本米をはじめ割高な和食の素材を買う事もあり、食生活の節約は難しい。せめて素材の無駄使いだけはしないようにしないとね!

そんな中先週、夫が美味しいベジタリアン料理を作ってくれた。

イラン料理の焼きなす、卵、ターメリックのトマト煮込みMirza  GhasemiとヨーグルトとディルのあえものBoraniに、トルコ料理のインゲンのトマト煮込みFasulye、ギリシャサラダ、チリペッパーのロースト、ハルミチーズのグリルに市販のフムス、タラマサラタ、パンを付けた夕食。

 

日本ではキプロスのチーズ、ハルミチーズが手に入るんだろうか? ハルミチーズは生でも食べられるらしいが、オリーブ油で焼いたり、グリルすると、とても美味しく変身する。ギリシャサラダは一口大に切ったきゅうり、トマト、赤玉ねぎ、黒オリーブ、オレガノ
にフェタチーズが入って地中海料理ならなんにでもあう。

とにかく全てとても美味しく、お皿の上の彩りもよくて栄養満点、しかも4人分作って20ポンド(約3300円)もかからなかったと夫が言っていた。

確かにベジタリアンの献立にするとコストは大幅に下がるし、野菜をふんだんにとれるので、週に1日ぐらいはベジタリアンデーでもいい感じ。

インドのベジタリアンの人たちの食生活が一番栄養があって、経済的だという記事を読んだことがあるが、これは案外事実に近いんじゃないかな?

とにかくしばらくは続きそうな物価高、だからこそちっとした工夫で日々の食生活が豊かで、美味しいものになるよう、まだまだいろんなレシピを探さないと!

こうして今日もまたYou Tubeにお世話になる私です。

娘の独立

2週間前の日曜日に、長女が実家を離れて新居に引っ越して行った。

もう25歳の大人であるから、英国社会の中ではかなり遅めの独立になる。

長女は高校卒業後、1年間はギャップイヤーを取って半年旅に出て、その後大学に入って親元を離れたものの、3年生の春にロックダウンになり実家に戻ってきた。コロナ禍の3年間は夫がオーストラリア、次女が9ヶ月間ポルトガルにいた事もあり、私と長女は一緒に暮らしていた。

大学も卒業して、仕事も順調にいき、また素敵なボーイフレンドがいる今は「大人の生活を充分楽しみたいからそろそろ家を出るで」と本人も新しい生活を楽しみにし、私たちも心の準備をして彼女の独立を応援していた。

けれども、いざ出て行ったらやっぱり淋しい。彼女の独立は、私の人生にとっても人生の節目になった。

今でこそフルタイムで仕事をしているけれども、長い間専業主婦であった私は、子供たちと一緒にいろんなことがするのが大好きで、有難い事にそれをする事ができる境遇にいた。子供と大人の時間、空間を区別している人もいる中、私は常に子供と一緒に何かをしている方が好きだった。

幸いにも近所にも同じ価値観を共有している人達が多く、コミュニティーができ、子供達が精神的に健康に育って行ける環境が整い、近所の友人と楽しく子育てすることができた。自分のアイデンティティーが、100%絶対的母親であり、主婦であった。でも今娘が家をでた事によって、自分の人生の役割が替わろうとしている気がする。

とにかく巣立って行った娘、と言っても翌週は地下鉄のストがあったので職場に近い我が家に泊まりに来たし、日曜日は英国の母の日であったから、これまたほぼ半日以上は一緒に過ごした。

その時の別れ際に娘は「やっぱり実家が好きや~、まだまだ実家に居たかった~」とちょっと涙した。誰にも何も言われないけど、いつ実家出るの?と社会からのプレッシャーも感じていたらしい。

思えば私は22歳、夫は18歳で実家を出た。私の母は一度も淋しいとか言った事はないけれども、どんな気持ちで私を送り出してくれたんだろうか?

いつかは親元を離れるのは当然とわかっていながらも、いつも見ていた笑顔が毎日見れないのは、とても淋しい。

日本では、仕事をするようになってからも実家暮らしの若者は多いと聞く。南ヨーロッパの国々でも経済的理由から、大学を卒業して働き出しても親元で生活している若者はかなりいる。

でもイギリスでは大学を卒業して1年以内に実家を出る若者が多い気がする。

私の友人の中で、25歳の子供が親と同居しているのは3人だけだ。その中の2人はお給料が安定してきたので、もうすぐ実家を出る。残りの1人は最近お父さんをなくしたので、母を精神的に支えるので、もうちょっと実家暮らしを続けるらしい。

長女の友人では、実家暮らしは残るところあと1人。ほぼ全員がもう独立している。

我が家の次女もこの夏大学を卒業するので、また夫と2人だけの生活にもどるのもそんな遠くない未来になるのかな?

子供はすぐに成長する。手がかかるのはわずかな時間だ。今子育てに疲れている親御さんがいればお伝えしたい。その時期はいつか終わりが来るので、どうか子供さんと共々、今しかできない事を楽しんでやってください、素敵な思い出を作ってくださいと!

できる事なら、もう一度子育てをやってみたいわ~!

ある夜の娘の夕食

ベルギーに来て思う事

ハーフタームホリデーになって、長女と隣国ベルギーに行ってきた。

パリと同様、ブラッセルまではユーロスターに乗って2時間弱で着くので、大阪から東京に行くようなもんだ。

ブラッセル、私が小学校の3、4年生の頃ぐらいだったと思う、父親にブラッセル転勤社命がでた。母は私の小学校に転校手続きを出し、後もう一歩でブラッセルに行く所でこの話は破断になった。

あの時ブラッセルに引越ししていたら、私のその後の人生はかなり今と違っていたに違いない。

そんな事を思い出しながら、何年かぶりのブルージュ、ゲントそしてブラッセルを4日間歩き回った。

ベルギーと言えば、数多くのビール、チョコレート、ワッフルそして英語ではチップス、日本語ではフライドポテトであるフリッツが有名だ。

ビールは、それぞれの銘柄専用のグラスに注がれて出てくるのが楽しみ。アルコール度数が高いものから、チェリー、ピーチ、ラズベリー、中にはチョコレート風味のビールなど、アルコール度数2.5%とあまり飲めない人でも楽しめるビールも多いのが有難い。

チョコレートとワッフルに関しては、町中が甘さに満ちていると言うか、誘惑が多すぎて大変!

フリッツには、何度も誘惑に負けそうになった。第一次世界大戦中、フランス語圏であるベルギー南部に駐屯していたアメリカ兵が、フリッツをフレンチフライと呼んだのが始まりで、それ以後アメリカではフリッツはフレンチフライと呼ばれるようになり、フランス発祥の料理と思われるようになった。

でもベルギーではフリッツはベルギー生まれとされていて、まさに国民食、町中至る所にフリッツ専門店がある。

フリッツは、普通のマヨネーズの他、カレー味のマヨネーズ、トラッフル味のマヨネーズ、ホーランデーソーズ、ベアルネーズソース、キムチとチーズソースと自分の好みのソースをつけていただく。私が好きなのはトラッフル味のマヨネーズ!

物価の高いベルギーでは、若者が外食する場合、フリッツやバーガー店ぐらいしか行けないのでは?どこのフリッツ専門店も現地の学生、旅行者で賑わっていた。

そう、今回久しぶりにベルギーにやってきて一番驚いたのは、高い物価。感覚的に言って同じレベルのお店を比べた場合、パリやロンドン、フィレンチェの方がブラッセルのお店の方より安いぐらい、ベルギーでは何もかもが高く感じた。

郷土料理を食べるに至っては、普通のカフェやビストロでも一皿平均20ユーロ(約2900円)以上はする。私たちが食べた国民食、ムール貝とフリッツは一人25ユーロ(約3580円)もした。ヨーロッパではムール貝はかなり安価に手に入るし、けっこう簡単に作れる料理なので、この値段にはびっくり!

まあ値は張るけれども、外国旅行の醍醐味である行った先の郷土料理は楽しみたい。

今回の旅では、ベルギー料理で、日本でも知られているチコリとハムのグラタン、Chicons au gratinがとても美味しかった。チコリをハムで巻いて、ベシャメルソースとチーズをかけて、マッシュドポテトと一緒にオーブンで焼くシンプルな料理。チコリの苦味とベシャメルソースの甘さが程よくあい、食べてホットする一品だった。

他に印象に残ったのは、行った先々のカフェ、レストラン、ホテルで、とても素晴らしいサービスを受けた事。どの店員さんも感じがよく、めちゃくちゃフレンドリー。特にブラッセルはフランス語圏なので、パリと比較してしまいがちだけれども、どのウエイター、ウエイトレスも時間に余裕があるのか、一言、二言会話をしてきて、説明も丁寧にしてくれて娘と二人感動の連続。

でも今回の旅ですごく感じた事は、いろんな人にぼろかすに言われてきたイギリス料理はそんなに悪くないって事。ごめんベルギー!ベルギーに来てイギリスの良さを再認識しているわけではないけれども、イギリスのパブで伝統イギリス料理を注文すると、必ず付け合わせの野菜が出てくるけれども、ベルギーでは野菜がついてきたことがない。たまたま私たちがそんな経験をした可能性もあるけれども、他の人のお皿にも野菜がついてくるのを見れなかった。

いつかフランス人よりもイギリス人の方が野菜を食べていると言う記事を読んだ事があるが、読んだ当時はこれを信じなかったけれども、何十年かヨーロッパに住んで、これは案外当たっているかもと思う、イギリス料理には必ず付け合わせの野菜がついてくる。

とにかく、娘といろいろおしゃべりをしながらベルギーをほんのちょっとだけ観察した私は、子供の時にブラッセルに引越ししてくる事はなかったけれども、こうして今ここに来れたことに感謝し、もしその人生を歩んでいたなら、自分の娘たちには会えていなかったから、やっぱりあの時ベルギーに引越ししなくて良かったと自分で結論付けてロンドンに戻って来た。旅行っていいもんやな〜。

救急外来

先日、次女が転んで右足を怪我した。すぐに夫が病院の救急外来(Accident and Emergency)に娘を連れていき、その日は骨折はなしとの診断を受けた。

後日、レントゲン結果で不明な点と血栓の疑いもあるとの事で、また戻ってくるように病院から指示を受け、夫がまた救急病院に娘を連れていった。

初回に病院に行ったのは火曜日の真夜中12時で、2人が家に戻ってきたのは午前3時半。待ち時間は2時間でこれは予想通りの結果。

翌日夫と娘は「真夜中の救急外来には、なんか不思議でもの悲しい光景が広がるわー」なんて言いながら、アル中になり全てを失ったと言う男性が、夫の横に座り自分の人生を夫に語り出した事、「もう3日間何も食べてないから、倒れそうや」とい言いながらレセプションに入ってきた女性、その女性にサンドイッチをあげていた看護師の話、大量のボリュームでTik Tokを見てた若者がご機嫌悪そうな看護婦に、ものすごい勢いで注意されてた事など感慨を込めて語ってくれた。

でも2度目の救急外来の経験は初回と違い、医療現場の大変さをしみじみ感じたよう。体力が消耗していた娘は思わず2度泣いたと言っていた。

夫と娘が2度目に救急外来に着いたのは金曜日の午後6時、とても混んでそうな時間帯だったけれども、病院からすぐに来てくださいとの電話が入ったので、長い夜を予感した2人は軽く食べてから救急外来に向かった。

午後6時にレセプションに着き、家に戻ってきたのは翌朝の午前3時。外来に着いてから担当の医者に緊急手術が入ったのと、順番後2人と言うところで、また緊急の患者がきたので、娘と夫は9時間も待つはめになった。ちなみに9時間あれば、ロンドンからドバイに飛行機で到着する。

その夜、夫と娘が目にした光景はドラマの脚本になるような強烈なものだった。

待合室はとても混んでいて、どの人も疲れきった表情をしている。

まずは、息ができなくて苦しいとうめきだす女性が娘の隣に座り、その女性はまる2時間ずーっと泣き続けていた。

前方には、怒りに満ちて、横柄な感じの中年男性が電話をしながら歩きまわり「俺はいつも人によくしてるのに、なんでこの俺がこの待遇を受けなあかんねん」とかなんとかと静かな待合室にいた人全員が聞こえるぐらいの大声をはりあげて話ていたらしい。その後その男性はどこかに消え、その間に看護婦が出てきて「ミスターなんとか」と消えた男性らしき人物の名前を呼んでいる。

しばらくすると男性は戻ってきて、レセプションに自分の番はまだかと聞いた。

「あなたの名前が呼ばれた時にあなたはいませんでしたので、あなたのリクエストはキャンセルされましたよ」とレセプショニストに言われた瞬間、その男性は、怒り狂い出し「俺は医者や、医者やから自分は今にも倒れそうなんがわかるんや~、どおしてくれるんや、早く医者にあわせろ」とすごい剣幕で怒鳴り始めた。その男性のとった態度はあまりにも偉そうだったらしい。

ずーっと大声でうめき声をあげている男性が入ってきたと思えば、肩を脱臼した女性がキャー、キャーと始終叫び声をあげ、またもや娘の隣に座る。

疲れきって、頭がボーッとしている時に、娘の前方に身長が2mはありそうな、背が高くて、いかつい姿をした男性が登場、とその瞬間その男性の後ろに鉄のチェーンでつながれ、手錠をされ囚人服姿の男性が現れた。その囚人は異様なまで不気味な笑顔を周りの人間に投げかけ続け、娘は囚人と一瞬目があい、その瞬間震え上がったらしい。

夫も「やっぱり囚人にはあれぐらい厳つい、いかにも訓練されてるボデーガードがついているんやな~」と感心していたほど、その光景は映画のワンシーンのようで、囚人はともかく、セキュリティーガードはファションといい、マフィアのような感じだったらしい。

次に怒りとイライラをセキュリティーガードに向け、ブツブツ言いながら中年の女性が待合室に入ってきた。その瞬間その女性は「やめて、こんな所に私を残さんといて、見て~やみんな外人ばっかりやん、こんなところでまつん嫌や~」と叫んだらしい。確かにそこにいたのはみんな外国人っぽい人ばっかりで、差別的発言と捉えられるものの、その女性もご先祖様は外国人とわかる容姿をしていたらしい。

何よりもハイライトは、具合の悪そうな娘を連れて入ってきた中年女性。レセプションで「娘は息ができにくく今にも倒れそうやから、今すぐ医者にみてもらって」と大声で叫んで入ってきた。

娘が診察してもらっている間、一度外に出ていった母は、戻ってくるなり看護室のドアをノックし、娘がどこにいるか聞き出した。「今他の患者さんを診ていますから、ちょっと待ってください」と返答されたその母は、それを聞いたとたんにブツ切れ状態になり、ジャマイカ訛りの、しかも聞き取りにくい方言で約10分以上、大声で全てを罵り出し始めた・

待合室はシーんとしていたので、本当にその女性の1人芝居だったそう。

しばらくして、セキュリティーガードやってきて、女性をなだめ始め、女性も徐々に落ち着きを取り戻したらしい。

後になって、娘と一緒に帰路につく際、さっきはあんなに怒っていたのに、何事もなかったようにレセプショニストに笑顔でバイバーイと手を振って帰って行った女性の姿に、みんな呆気に取られていたと言う。

体力消耗して戻ってきた娘と夫。でも今回の経験でさらに医療関係者への感謝の気持ちが高まったとと2人は言う。

医療関係者の皆さん、日々言葉の暴力にも耐え、本当にお疲れ様です、そしてありがとうございます。

外国語、それとも雑音?

先日パリのレストランで食事をしている時の事、私達の後ろの席には中国人と韓国人の留学生らしき4人組が座っていた。

人気料理店であるそのレストランには、地元のフランス人のほか、私達のような外国人観光客も多く、店内で聞こえてくる言語も様々で、その日も私達家族やその留学生グループも英語で会話していて、その音は他の音に混じって店内のざわめきとなっていた。

でもその後45分ぐらいたってから、異常に甲高い声が店内に響きはじめた。

その高い声の元は、留学生グループの1人の韓国人女性の声。酔っぱらってきたのか、その女性の声は以前よりも1、2オクターブも高くなっており、その音は鼻から出てきたような音をしていて、失礼ながらも聴いているだけで、人をイライラさせるような音になってきていた。

その音、声が一層ひどくなり、いいかげんうんざりしてきた時、私は職業上の癖がでて、その彼女に向かってシーッと注意をした。するとその瞬間、同時にその女性の近くに座っていた別のフランス人のお客さん2組もその女性に向かってシーッと、もっと怒りをあらわに注意した。

ちなみに私の長女は他のお客さんと視線があい「その声には呆れますね」とお互い目で語りあったとか。

とにかく注意された女性は恥ずかしそうにしながらも、謝る事はなく、ちょっと声をやわらげてまた話を続けていた。

こういう事って時に遭遇する。

ある日のラッシュアワー時、私の夫が、仕事帰りの、疲れた客でいっぱいのバスに乗っていた時の事、1人の男性がそのバスに乗ってきた。乗るとすぐに男性は携帯を出して、アラビア語で、しかも大声で話し始めた。その男性は段々と興奮状態になって話しだし、夫曰く回りにいた乗客もイライラを顔に表しはじめたそう。夫を含めて、その男性に向かってうるさいとジェスチャーを送る人もいたけれども、当の本人は全く気がついていなかったらしい。

またある時は、仕事帰りのバスの中、日本人の親子が同じバスに乗ってきた。その2人はロンドンに着いたばっかりで、バスの外を見て、あれやこれやといろんなコメントをしていく。

ちなみにこの時、バスはかなり混んでいて、さらに渋滞の中、どの人も疲れた顔をしていて、その親子以外は誰も話しをしていなかった。

その親子の会話は段々とうるさくなってきた。もちろんバス内で私だけがその親子の会話を理解しているはず。「もうちょっと静かにしてください」と言おうかなっと思いかけた時彼らは降りていった。その時、私の隣に座っていたおばちゃんもホットしたような顔を私にむけた。

これらは全て、話されてる言語がわからない方が雑音で、うっとしく感じさせるのか、話している内容がわかるからもっとイライラしてくるんだろうか。

どの言語であっても、大声でどなるように話たり、キーキー声で話たなら、回りにいるものは不快感を感じるのは確かな事。その反面、自分にとって耳に心地よい言語、情熱的に聞こえてくる言語、ガサツな印象を与える言語もあるのも事実。

昔、台湾人の彼女をもつイラン人男性が「彼女が中国語で彼女の家族と話している時、けんかでもしているのかなって思ってしまう」と言ってたのを思い出す。

またサッカー試合の中継中、感情が高まったイタリア人やブラジル人のコメンテイターが話す様は見ているだけでも面白くて、他の言語よりも情熱的に聞こえてしまう。

私の話す日本語は外国人にはどう聞こえているのか?

これだけは客観的にわかることができないから残念。でも友達に「日本語でこれはどお言うの?」なんてきかれたら、ちょっとおすましして答えている自分がいるのも事実。

ルーマニア料理のサルマーレ、今週のハイライト!