夫の演奏

我が夫の趣味は音楽。彼はギターを弾き、作詞、作曲をし、自分のミュージックビデオを作った事もある。

そんな音楽大好きな夫だけれども、残念な事にご近所さんのことを考えたら、自宅ではボリューム大でギターを弾いたり、歌う事はできない、と言うか「やらないで」とこちらがお願いしているので、彼は家では存分に音楽を楽しめない。

このな事情が多いからかどうかは知らないけれども、ロンドンではオープンマイクと言って、お客さんが自分の好きな音楽をパブで演奏するイベントがある。勿論パブもお客さんの集客が目的だけれども、アマチュアミュージシャンが演奏する機会を設けられる、音楽好きには有難いイベントだ。

夫は主にDavid Boy やDuran Duranと言った80年代のポップミュージックを弾くけれども、どんな音楽を演奏するかは、各自それぞれ。

沖縄出身の女性グループが、沖縄サウンドを披露したり、とてもシリアスな表情をしたカザフ人女性が急にピアノの前に座ったかと思うと、いきなりドレドレ、ドレミファソファミレと音階を弾き始め、次にエリーゼの為を弾き出したり、ロンドンに旅行に来ていた香港人、フィンランド人のツーリストが夫に伴奏を頼んで、自分の持ち前の歌を歌ったり、音楽学校の生徒が歌いに来たりと、まさにオープンマイクでなんでもあり。

それが先月「今度の金曜日の晩に演奏してくれないか」と、あるパブから夫に嬉しいオファーがきた。

午後7時から10時まで、自分の好きな曲を演奏して、演奏料も少しいただけると言う。まさに自分のしたい事でお金も少しいただけるなんて、夫は大喜びで即決した!

そして昨夜もまた同じパブで、夫は3時間のギグをおこなった。きてくれた友人も、パブのお客さんも同年代が多かったせいか、みんな一緒に歌を口ずさんで、パブ内はとてもフレンドリーな雰囲気に包まれた。

実は私も一緒にいった次女も、実は夫の演奏姿をみるのに初めは少し抵抗があった。自分の子供のバイオリンコンサートにいった時と同じで、「間違うんと違うか」ってこちらがドキドキしてくると思ってたからだ。だけどもみんなが喜んでいる姿を見て、そんな不安も一掃。

音楽が持つ、人と人を結びつける力にも実感させてもらったし、何よりも前回も今回も、成人した友達の息子くん達がパブに来てくれて、大感動。音楽は年齢関係なくみんな楽しめるから最高や!

応援してくれた友人達のおかげで、パブ側も売り上げは上がっただろうし、夫の演奏も評価してくれているみたいで、「また近いうちに演奏しに来てください」と言ってもらえ我が夫は上機嫌。

次回は、歌の上手な娘達と一緒に歌うのが夢のようだ。

若い時、バンドを組んで、ポップスターになることを夢みた我が夫、ポップスターにはならなかったけれども、オープンマイクやライブ演奏のおかげで、人前で演奏する機会ができて本当に有難い。私もいつか勇気を出して、夫の演奏で一曲歌ってみよかな!?

母との別れ

2022年の夏は私にとっては忘れる事ができない夏になってしまった。

夏の大阪行きを断念した私は、下の娘と一緒にイタリアのトスカニーを旅行していた。

中世の都市シエナを訪ね、壮麗なシエナ大聖堂の中を魅入っている時に、私は急に重力を感じた、と言うか何かに押さえつけられたような、次元が変わったような感覚を覚え、思わず娘に「なんか変な気分、これ何?」と聞いていた。

その日はなぜか広場でお茶をしながら、赤ちゃん、子供、若者、老人といろんな人を見て生と死について考えをめぐらしていた。

その夜の明け方、母と会い、2人でハグをしたような感覚を覚えた。

夢だったか、現実だったか、今ではもう記憶が曖昧だ。

でもシエナ大聖堂の中での体感と、母の映像を見たのは紛れもない事実。

母は、私がイタリアに旅行している間に亡くなっていた。悲しいことに孤独死だった。

急いで大阪に戻る事になった私「もしこの夏私たちが大阪に戻っていたらこんな事にはなっていない、母はまだ生きていたはず」と後悔ばかりが心に浮かんでくる。

3年ぶりの大阪は、母がもうここに居ないと言う現実を除いては、いつもと同じで、全く変わっていない。でもそれが時よりとても心を苦しませる。

お葬式が無事終わり、母の身元の片付けを始めると、じつに多くのものを見つけ始めた。

なんでも取っておく習慣があった母は、昔私がおばあちゃんに送った手紙や、私の父親が私に書いた手紙も残しておいてくれ、これらが私の心を癒してくれる。

最後の3年間は、コロナ禍の中とても寂しい思いをさせてしまったけれども、母の残した写真を見ていると、母の人生はいろんな経験に満ちた人生だったと感じ、私の中で母の死を嘆くのではなく、彼女が辿った人生を祝福しようという気持ちが強くなってきた。

母がヨルダンのペトラに行った時や、アルゼンチンのブエノスアイレスのカフェで綴った旅日記、関西外国語大学ラテンアメリカ、リレー講義を受講している時に書いていたノート、若い時に弾いていたマンダリンのコンサート、年末にベートーベンの第9をコンサートホールで歌いに行った時の写真と、好きな事を充実させていた彼女の人生が、ありありと目に浮かんできた。

いろんな経験をしてきた母、そんな中でも母にとって最高の時間だったのは、60代後半にJICAのシニアボランティアとして、シリアのダマスカスに2年滞在した事。ダマスカス職業訓練、服飾専門学校で、洋裁を教え、余暇には学生を自宅に招待して、生花を教えたり、在シリアの日本人の人々といろんな交流をした事だと思う。

もし母が今の時代に生まれていたら、もっと広い世界に早くから飛び出て、いろんな事を成し遂げていたに違いない。昭和12年生まれの、日本人女性に生まれた母にとっては、時には日本的価値観は息苦しかった時もあったと思う。

弟がお葬式の日に「お母さんの意志は3人の孫が受け継いでいきます」と母に送った。

まさにそう、今もう母の孫たちは、母がしたくてできなかった人生をすでに歩んでいる。それを母はあちら側から応援してくれているはず!

戻ってきたロンドンは、エリザベス女王の追悼に満ちていた。

人生は一方方向に進んでいき、誰もがいつかはこの世を去ると言う事がますます実感される。

人生を大切にして生きよーっと、日々の時間を大切にして生きていこう、それが母が教えてくれている事。ありがとうママ、84年の人生、おつかれさまでした。

今度生まれ変わっても、私のママでいて欲しいと言ってたけれども、次は私の娘として生まれ変わってきて欲しい、そして好きな事を存分にやらしてあげ、思っきりかわいがって育ててあげたい。

夫が帰国

3月の末に私の夫が2年7ヶ月ぶりにオーストラリアからロンドンに戻ってきて、そのあとすぐに夫と長女と3人でリスボンに住む次女を訪ね、久しぶりに家族時間を楽しむ事ができた。

2年と7ヶ月と言う年月は長かったけれども、ロンドンに着いた翌日から、何も変わってないロンドンの日常にすんなりとけ込んでいった彼は「まるで2年と7ヶ月と言う時間はなかったような錯覚がする」と言っていた。

でもそんな彼がただ一つ違和感を覚えたのが、イギリスのコロナ情勢。レストランに行くにもワクチンパスポートを見せなければならず、まだどこに行くにもマスクを着用しなければならなかったオーストラリアから戻ってきた彼にとっては、地下鉄やバスの中でもマスクをしていない人が多いロンドンの姿にびっくり。

こちらがどんなに「もうマスクしなくても大丈夫やから」と言っても本人は聞く耳持たず。

「こんなに感染者が多いのにマスクしないのはおかしい」とこの話しになるといつも口喧嘩になっていたので、最終的にお互いのやり方に口を挟まない事で同意した。

いつも思うには対コロナについての身構えは人それぞれ、自分が得るコロナ情報源がまちまちだし、そこに個人の性格、価値観も加算されて様々な意見が生まれる。

私が思うに、オーストラリアのコロナ情勢はイギリスのそれよりも8ヶ月から10ヶ月は後にあるように感じる。

そんな我夫も、ポルトガルではまだスーパー、レストラン、カフェ、地下鉄の中ではマスクの着用が義務付けられていたので「ポルトガルはえらい、ちゃんとコロナ対策を考えている」と言いながら安心していた。

確かに国が違うとコロナ事情も変わってくる。ゼロコロナを目指している国もあれば、コロナと共存と言っている国もあるしね!私にとってはこのイギリスのあり方の方が有難い。

夫はファイザー社のワクチンを3回打って、ワクチンパスポートを持っているけれども、EUはオーストラリアのワクチンパスポートを認めていないので、ポルトガル入国の際、夫だけがPCR検査をして陰性証明書を取らなければならなかった。でも結局空港では誰も細かいところまで調べてこなかったけどね!!

ニュースを見れば、日本もやっと6月から外国人旅行者の入国を再開するとある。

マスクの着用はいつ終わるんだろうか? 

この夏は必ず日本に戻りたいと思っているけれども、あの暑さの中でのマスク着用は暑さに弱い私にはとてもきつい気がする。

そんなこんなと思いを巡らしているとリスボンに住む次女から電話が入った。コロナに感染したと言う。いろんな行事が決まっていたので、それがいけなくなって残念がっていたが、幸い軽い風邪の症状だけで熱もでず、一週間後には「読書とNetflixで楽しんだ、もうちょっと家に籠もってたかったわ」と呑気に言うしまつ。

ワクチンが効いているからか、みんなコロナに対する免疫がついてきたからか、コロナで重症化している人は確実に減ってきている。もう前に進んで言っていい時期を通り越したんじゃない気がする。

夫は2日前にまたオーストラリアに戻っていった。仕事の契約が7月までなので、その後はまたロンドンでの生活が再開する予定だけれども、やっぱり日本もオーストラリアも鎖国状態だったので、また国境がしまったらどうしようかと言う一抹の不安があるのは確か、でもコロナよ本当にこれ以上私たちを苦しませないでいてほしい! 

ひとまずは2年7ヶ月ぶりの夫との再会をみんなで喜んだ4月だった。

家族集合

娘の旅立ち

先週の日曜日私の次女が9カ月の留学の為にポルトガルのリスボンに旅立って行った。

予想通りやっぱり私は時より寂しさに包まれる。次女はリスボンに立つ前の最後の週、私の仕事場近くまで毎日迎えにきてくれていたので、その時間帯になると彼女がもうロンドンにいないんやーと少し心がほろりとしてきてしまう。

あー今月大学に子供を送り出した親はみんなたどる道やろうね。今さっきも今日ウェールズまで娘を大学に送り出した友人から「嬉しいけどちょっと悲しいわ」というメッセージがやってきた。

さてリスボンに住んで約1週間が経とうとしているけれども次女はいまだに日々外食をしている。でも外食ばかりでは偏食になりがちな上、自炊をしないと不経済だ。ありがたいことに日本食の食材を扱っているお店が家の前にあるらしいので「いずれは和食を作るように」と母は願う!

娘のランチ、ポルトガルの代表料理 あさりと豚肉のシチュー

という私も長女と一緒に住んでいるものの、お一人様の食事回数が増えてきているので、作るものを変えていかないといけない。こうなると和食を作るよりもサッとお肉か魚を焼いて、サラダを作って後野菜料理をつけたすような料理が一番手間が省ける上、栄養価もあっていい。

二日前も簡単なお一人様料理を作った。ルッコラの上に軽くサッと焼いたマグロのステーキをのせ、その上にオリーブ油とアボカド、コリアンダー、チリ、トマト、ライムで作るガッカモーレをのせ、付け合わせにはキヌヤとズッキーニのグリルを作っていただいた。これは20分で作れた上、見た目がすごく綺麗で栄養価も高い。

サラダと言えども、レタス、ルッコラ、いろんなリーフ野菜と共にグリルまたは茹でたズッキーニ、アスパラガス、インゲン、炒めた玉ねぎを入れて、そこにクルミやチーズ、半熟卵といろいろを付け加えたら豪華に出来上がるし見栄えもいい感じ。

フランス人の友人が一番美味しいと感じるサラダはリンゴ、チコリ、クルミのサラダという。

ニース風サラダなんかは茹でたじゃがいも、卵、インゲン、トマト、アンチョビー、オリーブといろいろ入って立派な一品だ。レバノン料理のタブレーサラダなんかは大量のイタリアンパセリが食べれてみるからにヘルシー。

「イギリスの大学生が一番よく作るのはジェノベーゼパスタと思う」と長女は言う。瓶詰めのジェノベーゼソースは格安で茹でたパスタを混ぜるだけだから超簡単。でもこればかりだったら栄養価が低いし何か物足りない。幸いにもポルトガルは物価が安いし、美味しい食材が揃っているので工夫次第で美味しいものが作れるはず。

まあでもこんな風に自炊生活を経験して誰もが料理のうでを上げていくんやろうね。

「娘よ頑張っていろんなポルトガル料理を作れるようになって帰ってきてや!」

私もベジタリアン志向の長女との食生活、新しい料理を学んでいこーっと!!!

昨日の娘のランチ

誕生日

今日は次女の20歳のお誕生日。

今年は今まで以上に誕生日を楽しみにしていて、どんなパーティーにするかいろいろ考えていた次女。でもここに来てロックダウンになってしまったので、その楽しい計画も一時中断。

考えて見たら、日本では20歳といえば、成人、大人の仲間入り。私が20歳になった時は、母に振袖を揃えてもらい、家族写真を撮りに行き、成人式の後は友達と飲み会を楽しんだっけ。

それを思うと自分の娘の20歳の誕生日にちゃんとした用意をしてない事に気ずき、なんか申し訳ない。

イギリスでは18歳のお誕生日を大きくお祝いする。でも最近ではアメリカ式に21歳のお誕生日を盛大にお祝いする人も多い。

私の娘達がまだ小学生の頃、毎年子供の誕生日のパーティープランを考えるのが、一大事だった。その頃はクラスメートが20人前後だったので、みんなクラス全員を招待していた。

家が広ければ、自宅でパーテイーを開けるものの、狭いフラットに住んでいる我家の場合、どこかスペースを貸してくれる所を見つけてパーテイーを開くことに。

近くの教会のホールを借りて、そこで子供のパーティー用のエンターテイナーに来てもらい手品、ゲーム、discoパーティーをしたり、映画とPizzaパーティー、アイススケートパーティーやロッククライミングパーティーをしたりと常に新しいアイデアを探していて、それがまたストレスの元だった。

そお言えば一度Soho Teatreという小さな劇場に連れてって、子供のためのお笑いショーを見て、ベトナム料理を食べて帰るというプランを立てた。パーティーも終盤、さてみんなで帰りましょと外に出た所、ほとんど裸に近い男性ヌーデーストの団体が、何台もの自転車に乗って、ボリューム大の音楽をかけながら目の前の通りを過ぎていくのを目にした。当時10歳の子供達はみんなそれを見て、大喜びではしゃぎまくり。でもこの光景をよしとしない親もいると思った私は、とてもあっせたのを覚えてる。

時には同じ誕生月のお友達とジョイントパーティーをしたこともある。ジョイントとなると役割もコストも半分になったので、気がとても楽だった。週末ごとに子供を誕生日パーティーに連れださなければならない親にとっても、ジョイントパーティーだったら2回あるはずのパーティーが1回になるので、ありがたいって言われた事もあったけ。

イギリスでは子供の誕生日パーティーは、気力、体力、お金がいるというのが通説。

まあこれも私にとってはもう過去の話で、今となったらそのころが懐かしい。

今夜の夕食

とにかく今日のお誕生日は自宅でディナー。

次女の大好物のフレンチオニオンスープ、仔牛をパン粉とパルメサンチーズにつけて揚げるコトレッタミラネーゼ、スイス料理のロスティを作った。オーストラリアにいる夫はFace Timeでケーキの時に参加。

ロックダウン中の20歳の誕生日はある意味一生忘れないやろうなー。

せめて今度日本に行く時は私の振袖を着せて、記念写真はとってあげたい。

ベジタリアン

私の夫は30年前まではベジタリアン、今では魚を食べるペスカトリアンになった。

彼がベジタリアンだったのは、動物愛護やライススタイルの観点からではなく、体が肉類を受けつけなかったからだ。

今でこそベジタリアンもヴィーガンも珍しくはないけれども、夫が子供の頃、オーストラリアの片田舎では、「お肉が食べれません。」なんていうと「何やそれ、何をふざけてんねん!」ってな感じで見られていたらしい。友達のおうちで食事をご馳走になるのがとても恐くて、お泊まりするときは、行くよりも自分の家に友達を来てもらうようにしていたらしい。

お肉が食べれない夫を心配した彼のお母さんが、彼を医者に連れて行くことに。

「この子は自分の体が必要としているものはちゃんと食べてますよ。卵は週四回あげるようにして、あとは豆などからタンパク質をちゃんと取ってください。」この医者のアドバイスがあってからは彼の家族も夫の肉なし食生活を受け入れた。でもBBQ大国、ステーキサンドウィッチ王国のオーストラリアで夫が普通に外食を楽しめるようになったのは、彼が成人してメルボルンに引越ししてレバノン料理と出会ってから。それまでは家族がローストチキンを楽しんでる時、彼はもっぱらフレンチトーストやサラダを食べて喜んでいる日々を送っていた。

夫が魚を食べるきっかけになったのは、お刺身と握り寿司がきっかけ。彼の家族はイギリスやアイルランドの食文化を受け継いでおり、オーストラリアの内陸部に住んでいて新鮮な魚があまり手に入らなかったことも手伝って、美味しい魚料理を知らずに育った。そんな夫も今では魚をさばけるようになったからすごい。

とにかく魚が食べられるようになって、食のレパートリーと外食先の選択肢もひろがった。

今のロンドンでは、ベジタリアンはレストランの選択にほとんど問題がない。ほとんどのレストランがベジタリアンフレンドリーだし、というかベジタリアンの選択肢がないとレストラン業も経営していけないと思う。長い間お肉料理だけが専門だったイラン料理のお店でも、最近では野菜だけのシチューとかがメニューに上がっているし、お洒落なベジタリアンレストラン、ヴィーガンレストランも増えている。インド料理、レバノン料理、イタリア料理、マレーシア料理なんかは野菜だけの料理も多いので、ベジタリンにはとても人気がある。

私自身はまだ行った事がないが、ロンドンにあるベジタリアンのレストランMIldredsは大人気だ。

大学でSustainability(環境の特続可能性)を専門に学んだ長女や彼女の同世代の友達には、牛の飼育による環境への悪影響を考慮して、なるべく牛肉を買わない、食べないというスタンスをとっている若者が結構いる。牛の飼育にかかる水の使用量が他の畜産物にからべて以上に多いらしい。

私の周りにも、牛肉はあまり買わないという友人が多い。

実際、野菜だけの夕食にする時は、低コストで、なんか体にいい事をしている気分にもなってくる。私が和食のベジタリアン料理を作る時は、野菜の天ぷらまたはかき揚げ丼に、千切り大根の煮物、ピーマンの炒め煮、人参のきんぴら、白菜の炒め煮、揚げなすと家族が大好きな料理が多くて、肉や魚がなくても充分に美味しくいただける。

ある日、日本に出張に行くことになったベジタリアンのインド人の友達に、日本で食べれる物のリストを作った。揚げ出し豆腐、なずの田楽、大根の煮物、焼きおにぎり、山菜そば、野菜天ぷらうどん…

ロンドンに戻ってきた彼は「日本は今までいった国の中でも一二を争うほどベジタリアンフレンドリーな国や!ベジタリアンヘブンや!」と興奮して、日本で何を食べたか逐一説明してくれた。

精進料理もあるし、確かに家庭料理には野菜だけの一品も多いかな?

普段は牛肉に対して特別な思いがない私。でも日本に帰って焼肉、しゃぶしゃぶ、すき焼きを目の前にしたら、その時はもう食べる、食べる。やっぱり美味しいから、食べずにいられない。

まあどの人も自分の好きな物を食べて、健康にも考慮して生きるのが一番やね。

これも長女が作ったセルリアックの
ステーキ
長女が作ってくれたブロッコリー、サバ
入りトマトソースのスパゲティー

今の現状

イギリスのほとんどの学校がこの月曜日からハーフターム(中休み)に入る。

私が働く学校は先週から2週間のハーフタームに入っており、もしやロックダウンという場合を想定して、11月第一週目はオンライン授業に切り替える準備も整えている。

コロナ情勢がここまで長期化するとは去年の2月には想像もつかなかった。いつになったら収束していくのだろうか? ほんまに1日も早く終わってほしい!

ここにきて先週は夫がコロナ検査を受けて自宅待機になった。夫が住むオーストラリアのキャンベラは過去103日の間コロナフリー。でも先週の月曜日にスタッフの一人がシドニーに出張し、その後発熱した為に夫の職場のチーム全員に検査命令が出て自宅待機の要請が下った。

幸い検査結果は陰性だったけれども、その同じ日に今度は先週からインターンシップが始まった長女にも翌日は自宅勤務をするようにと会社から電話が入った。インターンの指導をしているスタッフが、先週コロナの検査結果を受けて陰性だったけれども、コロナの症状が出てきたので至急再検査する事になり、その結果が出るまで彼女と濃厚接触をした人は全員自宅勤務に切り替える事になったからだ。

同僚の甥っ子は、親元を離れ大学の学生寮に入った二日後に同じ階下の学生のコロナの陽性が発覚し、いきなり自分の部屋での二週間の隔離生活に突入。残り一週間になったところで別の学生の検査結果が陽性だったので、その日を数えてさらに2週間の自室隔離生活を送るはめになっている。

大学の学生寮によっては、暖かい学食は出ず、栄養価のほとんどないビスケットやカップ麺を配っているというのもニュースで読んだ。これで家族や友達に会えなかったら、たまらん!

今は別の世帯に住んでる者同士が外食をする場合は、野外じゃないとできない。でも家族でレストランに行くと、どう見ても同じ家に住んでなさそうな人たちが室内で会食している。ビジネスだったら六人までの会食は許可されているというのもの矛盾しているし!

今年はハロウェーンはどうなるんだろうか。子供達が楽しみにしているトリックオアトリートはできないだろう。イギリスの首相は「クリスマスは家族で迎えられうようにしていたい」と言っているけれども、本当にこれだけはそうなっていてほしい。実際イギリス政府のアドバイスは一貫性に欠け、これを真に受け止めている人は周りにもとても少ないが、人は先に楽しみがないとやる気が萎えてくる。

次女は来年の九月からポルトガルの大学に一年留学が決まっているが、彼女曰く「残念やけれども、一応キャンセルになる心の準備はできている。でも最後の最後まで望みは捨てない。」と言っている。

東京オリンピックの動向も、いまいちはっきりしてない。その為に人生をかけて鍛えてきたアスリートの心を思うと、本当にやるせ無く思う。でもここで望みを捨てたらあかん!

今の現状は世界中の人々に大なり小なり何かの影響を及ぼしている。私自身はコロナが流行してから、自分のできる範囲で気をつけていて、あとは恐怖に飲み込まれないように意識は他にむけてきた。

今日はなんかぶつぶつ言ってしまったけれども、でもこんな今だからこそいつも以上に小さな楽しみを見つけて生きていくのが大事だと再認識している。いつか旅行に行きたい所を探したり、いい本を読んだり、お笑い番組でもみながら、笑って生きて行くのが一番大切だと思う。

食べるのは大きな楽しみ。
小さな楽しみの一つ、公園の散歩。

私の夫

私の夫はちょうど去年の8月末からオーストラリアのキャンベラに単身赴任している。

彼の仕事はMusic Video やCommercialの編集で、MTV全盛期には売れっ子のDuran Duran, Pet Shop BoysやSpice GirlsのMusic Videoも手掛けたこともある。

でも最近はそおいったものに高予算をかけない風潮が続き、また何よりもテクノロジーの進化と共に一般の人も気軽に編集作業ができるようになったので、彼の仕事の依頼もグーンと減り、この一年ほどはほとんど仕事が入らなくなっていた。

だからこのオーストラリアでの仕事のオファーを受けた時、家族思いの彼は相当悩んだけれども、やっぱりキャンベラに行く決心をした。

クリスマスはあまりにも飛行機代がかさむので、私達は春にキャンベラに行くつもりでいたが、ここにきてコロナ禍の為、それも断念、夏休みも断念しなければならず、結局この一年間は逢えていない。

その分、ほとんど毎日facetimeかLine video callで1時間ぐらい話すけれども、自分の国といえ新しい土地での一人暮らしは寂しそうだ。その上彼のお父さんが住むクイーンズランド州の国境は閉鎖されているし、3日前はクイーンズランド州知事が「もしかしたら12月の末まで国境を閉鎖するかもしれません。」と言ったので彼はさらにがっかりしている。そんなことはない事を望むけれども!

料理ができる夫だけれども、彼が一番食べたい日本食だけは作ったことがない。キャンベラにも日本食のお店はあるけれども、なまじっか日本食の事を知ってるだけに、そこまで満足のいく料理を出してくれる店はまだ見つかってないようだ。

家で作る和食といえばご飯を炊いたり、カレーを作るか、後はスモークサーモンとアボカドで手巻きを作るだけ。でも昨日は小さな袋に入ったインスタントのお味噌汁を買って、飲んだら、久しぶりでめちゃくちゃ嬉しかったらしい。それを聞くと私と娘はなんかほろりときた。

You Tubeでもいろんな人が日本食の作り方の動画をあげているし、娘と私が好きなYou TuberのKimomo Momさんを彼にも勧めた。でもKimono Momに出てくる娘さんのSutanがあまりにも可愛くて、我娘の子供のころを思い出してしまい、彼はほろりときたらしいのでなんか逆効果。

ロンドンにいる時はいつもオーストラリアを夢見て、いつの日かまた故郷に住みたいと願っていた夫。休暇をオーストラリアの実家で過ごした後、ブリスベンからシドニー空港に着き、ロンドン便に乗り換える時、いつも「ロンドンに帰りたくない」と言ってた彼が、前回のクリスマス休暇の時、シドニー空港に着くと、キャンベラ便にのらず、「このまま右に曲がって国際線に行きロンドン便に乗りたい」と思ったらしい。

彼が求めていたオーストラリアの生活は自分の生まれ育った町での生活であり、そして今はもう自分の生活の基盤はイギリスのロンドンにある事を痛感したようだ。

コロナ禍で自分の家族と離れ離れになっている人は、とても多いと思う。あー1日も早くこの問題が収束しますように!