ご近所さんS

昨日は仲良しのルーマニア人姉妹MとDと、近所の友人S宅に遊びに行ってきた。

雲一つない空の下、そよ風が気持ちよく通り抜けていくSのお庭でいただいお茶は格別に美味しい。

Sは若い頃はモデルをしていただけあって今でもとても綺麗で、10歳以上は若く見える現在82歳のドイツ人女性。

最愛のご主人を亡くし、ドイツにももう親族が残らず、子供もいないSは「家に引きこもる人生は絶対に送りたくない」と言い、毎日いろんな所に出ていき、若者とも交流しいつ見てもイキイキしている。

MとDとは週に二回Sと一緒にジムに通い、Sは行きつけのヘアサロンからは誕生日には大きな花束をもらって祝ってもらい、行きつけのカフェでは毎回割引してもらい、そこのギリシャ人のマネジャーとは友達になり二人は毎週火曜日にロンドンのいろんなエリアを散策に行く。

ある時は彼女と一緒にパブにいると、まだ30代ぐらいの男性がSに寄ってきて、Sの手をとり彼女を口説き始めた事もある。

Sを見ていると、自分も80代になったらSのようになっていたいなと希望を与えてもらえるし、年齢的に亡くなった自分の母を思い出させるのか、彼女の力になりたいなとこちらを思わせる人としての魅力をSは持っている。

Sには彼女の人生を本に書いて出版したいと言う夢がある。

彼女のご主人は生前映画関係の仕事をされていて、Sは多くの著名人と交流する機会があり華やかな世界を見てきた。若い頃はまだ反ドイツ感情の残るパリに住んでいたSはドイツ人としてのアイデンティティーを隠してモデルをしていたり、信じていた人に詐欺にあったりと彼女の人生には話のネタが尽きない。

どうしたらSが出版にこぎつくかとみんなで色々提案しながら、今回はとにかくインスタグラムを始めて、彼女のロンドン散策をストーリーにあげて、フォロワーを集めてみてはどうかと言う事になった。

毎週火曜日にSがロンドンのいろんな場所を散歩に行く時にストリーを公開する。

人生大好きな82歳の女性がロンドンの素敵で面白い所を見せる事だけで、誰かにインスピレーションを与える事になるかもしれない!

おかしいことにすでにインスタグラムのアカウントを持っていたSは、自分がインスタグラムのアカウントを持っている事を知らなかった、友人の誰かがSのアカウントを作成したようだ。

MがSにインスタグラムの投稿の仕方を教え、早速Sは彼女のお庭に咲いている花々をインスタグラムに投稿、こんな小さい事から世界とつながれるとSは喜んでいた。

新しいことに挑戦し、友達がたくさんいるSはまだまだ元気でいてくれる事と思うし、周りの私達もそうであって欲しいと願う。

お茶をいただきながら、いろんな世代の友人がいる事がいかに有難い事かとしみじみと感じた。

母亡き後、この夏また日本に戻れなかった私にとっても、人に恵まれ、近所にもお互いをいたわりあう素晴らしい友人との出会いがあり、ロンドンが本当の意味のホームになってきた。

ちょっと前には反移民の暴動も起きた英国だけれど、その何倍もの反右翼、移民擁護の人達が通りに出てきて本当に心強い事や!

爽やかな夏の午後、私はなんとも心暖かく帰路についた。

Goodbye Summer of 2024!

 

忘れていた夢

先日古くからの友人、イタリア人のGとF夫妻がロンドンに来て、Gとは11年ぶり、Fとは20年ぶりの束の間の時間を楽しんだ。

夫と一緒に彼らが泊まっているホテルのロビーに行ったものの、私の脳裏に浮かぶGとFは、最後にあった時のイメージのみ。だから20年間もあっていなかったFが目の前に現れた時は、さすがにその人物がFである事に一瞬気がつかなかった。ふさふさだったFの黒髪は、綺麗なシルバーグレイに変わっていて、あまりに時が経過していたことを実感!

GとFとの出会いは、私が当時通っていた英語学校。Gは私のクラスメイトで、私達はすぐに意気投合し、当時はまだGの彼氏であったFと私の夫と4人で食事をしたり、出かけたりして私達は親交を深めていった。

夏にイタリアに旅行に行った時は、Gの家族、Fの家族のおうちにご招待を受け色々とよくしてもらい、後には結婚式までも招待してもらい、お互いの長女が1歳の頃までは、私達は年に2度はGとFに逢っていた。

2人に出会った頃、彼らはまだ大学院生と大学生。いい成績で卒業するのが重視されているイタリアでは、何年もかけて卒業するケースがあって、Fがエンジニアの学位を取ったのは、確か彼がもう26歳ごろになっていた気がする。

そして今、Gは大学教授になり、Fは土木工学者としてイタリア警察で働いている。

2人は着々と勉強してきて、自分の好きな事でキャリアを積み、素晴らしく輝いて見えた。

当時の私は語学学校に通い、自由な時間を楽しんでいた。ただ地中海料理の専門家になって、料理の本を出版するのが夢で、Gのマンマにもいくつかイタリア料理のレシピを教えてもらったし、それに向けて私なりに努力をしていた。

だから先日Gに「最終的にお料理の本は出版できた?」と聞かれた時、その夢をまだかなえてない、というよりその夢を断念した自分を思い出し、私はちょっと情けなく、あ~いったいこの20年間何をしてきたんだろうと自責の念にかられだした。物事をコツコツと続けていく事の大切さ、これこそが自由を求めすぎてきた私にかけている事と心から痛感。

それとともに、自分がめちゃくちゃ地中海世界に憧れていて、今でもそれらの情熱は自分の中にあることを認識し、私が学んだ数々の美味しい地中海料理が脳裏にうかんできた。

「そうやあんなに美味しくて、新鮮で、健康にいいレシピを集めててんや」

私のイタリア料理の経験は、まさにGのマンマと Fのマンマの味が基礎になっているので、その後どんなに美味しいと言われているイタリア料理をいただく機会があったものの、2人のマンマ達が作る味に勝る味に、いまだかつて出会っていない。

Fがよく「僕のマンマは本当に料理が上手や、その中でも一番美味しく作るのは、豆のパスタPasta e fagioliや!」と言っていて、初めてそのパスタを口にした時は本当にそのおいしさに感動して、こんな料理を日本に紹介したいと強く思った私がいた。

Pasta e fagioliはフジィリ、マカロニ、短いスパゲティーなどいろんなパスタのミックスと、玉ねぎ、トマト、セロリ、ニンニクをオリーブ油で炒めたソース、よくゆでたお豆(Brolotti)水を加えて一緒に茹でた、レストランではあまりお目にかからないナポリの郷土料理。

人生でキャリアを築いてこなかった私は、その事を時より後悔してきた。けれども食には、特に地中海世界の食文化にはとても情熱を持っていて、それらに関していろんな事を学んできた。今回のGとFとの時間は、そんな自分がいた事を思い出させてくれた。

 

さあ久しぶりにPasta e fagioliを作ってみよう!そして出版にはこぎつかなかったけれども、自分が書き上げた原稿をもう一度見てみよう。

GとFと逢って、私の中で忘れられていた夢がまた蘇ってきている。

 

 

悲しいニュース

今週は悲しいことに友人のご家族の訃報を2回も聞いた。

国外への移動制限がかかっている今、3人とも自分の国に戻る事ができず、Live Onlineでのお葬式に参加することに。

お母さんを亡くした友人はロンドン在住のルーマニア人の姉妹で、彼女達はもう何年も、ブカレストに住んでいた高齢のお母さんに毎日電話をして、3ヶ月に1度はお母さんに逢いに帰っていた親孝行な娘達。お母さんは次女Dの誕生日の前日に眠っている間に永眠された。2人とも「高齢とはいえお母さんの突然の死はあまりにショックでまだ現実をうまく受け入れられない、最後にひと目見たかった。」と悲しみにくれている。

もう1人の友人Pは、もう20年近く癌で闘病されていたお姉さんを亡くした。友人Pは7人兄妹の末っ子で兄妹とても仲良く、コロナ禍の前はひんぱんにオランダに帰っていた。

今回オランダとの間に移動制限、自主隔離をもうけてないカリブ海の国Arubaに住んでいるお兄さんはお葬式の為にオランダに即帰国できたが、ロンドンに住んでいる友人Pはオランダへの帰国を断念するはめに。

とても悲しいことだけれども、3人とも「Live Onineでのお葬式はとても素晴らしくてまるで自分がそこにいるような厳かな気分に包まれた」と言っていた。

そして悲しみの中にいる友人達だけれども「家族の死に直面して人生について考え直す契機になった」「もっと健康的にそしてもっと今にフォーカスして生きていきたい」と前向きな言葉も発している所に彼女達の精神の強さが見える。

ほんと、自分の家族のお葬式にさえ行けないこんな状況を去年の今ごろはまだ誰も想像できなかった。

移動制限の為に思うように自分の家族に逢えずにいる人は世界にどれぐらいいるんだろう?

同じ国に住んでいても、クリスマス、お正月は別々だったという話もあちらこちらから聞く。

今年もまたオーストラリアにいる夫がロンドンに戻ってくる事も、私達がオーストラリアや日本に行く事もできそうにない。でも淋しくても人生の日々は刻々と過ぎていく。

だったらやっぱり今この瞬間にフォーカスして生きていかないと、少しでも笑って!

友人のお母さんとお姉さんの人生が喜びに満ちた人生であったよう、そして心からご苦労様でしたと言って今夜は祈りを捧げよう。

公園の至るところに咲くSnowdropをみて癒される
春の到来が感じられる道端の花

リラのかぶスープ

もう30年以上も前の話になるけれども、ある日私がベランダに出て外を眺めていると、ベランダ越しにめちゃくちゃフレンドリーなお隣さんが話しかけてきた。

その隣人はイラクの首都バクダット生まれのアルメニア人リラ。彼女は政治的な理由でイギリスに亡命してきており、丁度その時はお兄さんの所有する、うちの隣のフラットに一時的に住んでいていた。亡命してくるぐらいだからたくさんの困難に直面してきたリラだけれど、経済的に恵まれた幼少期を送ってきたリラには、立ち振る舞いのエレガントさと教養の深さが備わっており、彼女は洗練された素敵な60代の女性だった。

中近東の文化、歴史、食べ物に興味のあった私と、隣人との間に友好関係を求めていたリラとはすぐに意気投合して、それ以来彼女はたびたびランチを作って私を招待してくれた。

リラの作ってくれた食べ物は全て美味しい物ばかりで、私は今まで口にした事がなかった料理をたくさん食べさせてもらった。彼女の作る料理は遠い国の香りが詰まっており、なぜか私をノスタルジックにさせ、それをきっかけに私はどんどん中近東の料理に魅せられていった!

そのリラが亡くなってもう10年以上は経つが、先週末のマーケットでかぶを見た時、急に今は亡きリラを思い出した。

「そうや昔リラがよくかぶのスープを作ってくれたっけ!」

リラのかぶスープ、バクダット風はチキンストックにたっぷりの皮をむいたトマト、一口サイズに切ったかぶ、ニンニク、ドライミントとレモン汁を入れて味つけし、リラはそこに自家製クルトンをいつも入れていた。

多分ドライミントが異国の味を連想させたんかな?あー懐かしのあの味をもう一度食べてみたい。

リラが作ってくれたの数々のお料理の中でも当時の私が一番異国を感じた一品がある。リラのレモンチキンだ。

まず、一つかみのサフランを潰したカルダモンといっしょにテーブルスプーン3杯のローズウオーターにつけておく。

チキンを色がつくまでオリーブ油で焼き、焼けたらチキンは他の器に移しておき、同じフライパンにスプーン1杯の小麦粉と水を加えて混ぜ合わす。そこにとっておいたチキンとさらに一口大に切ったじゃがいも、テーブルスプーン2杯分のレモン汁、ローズウオーターに浸かったサフランを入れる。

リラはここにセヴィージャオレンジも少し入れていた。とにかくローズウオーターとサフランの香りは、アラビアンナイトの世界に入ったような気持ちにさせてくれたっけ。

リラの人生は政治に翻弄され、彼女は多くの財産を失った。ロンドンに来た彼女を助けたのは、昔彼女の実家で働いていた運転手さん家族。ロンドンに来てビジネスで成功したその家族とリラの立場が逆になったのをリラは物悲しそうに語ってくれた。

リラが亡くなった時、私は次女を出産したばかりで少し彼女と疎遠になっていた。ある日私は急にできた用事で家の外にでた。私が表玄関を出た瞬間、リラの家を時々お掃除にきていた女性とたまたま遭遇。

「リラは最近どう、彼女元気にしてる?」

「実はリラは先々週に亡くなって、彼女のお葬式は明日の午後にあるんよ」とその女性が教えてくれた。

その時私はリラが彼女のお葬式のことを私に知らせにきてくれたんやと直感でわかった。

翌日彼女のお葬式に出るためにアルメニア正教会にいった。生まれて初めてアルメニア正教会の中に入る事に。教会がお香で満たされ、神父達がアルメニア語で賛美歌を歌う。

リラは最後の最後まで私に異国感を味あわせてくれた。有難うリラ!

今週末は彼女に教えてもらったかぶのスープを作ってみようと思っている。

友人N

今日は久しぶりに仲良しママ友4人と一緒にビデオコールをした。

現在20歳の次女が小学校1年生の時からのお付き合いで、子供の成長をともに見守り、親として一緒に成長し、そしてお互いの友情の絆も深めていった私たち。

そのメンバーの1人のNはレバノン人。とても綺麗で、教養が深く、話術に長けて、真にかっこいいN。

彼女は誰にも臆することなく言いたいことを理路整然と言え、またそのファッションセンスは抜群で、アラブの大富豪の奥方から買い物のアドバイザーを頼まれるほど、英語で表現するところの「She is one in a million」稀に見る器の人材だ。

子育てのほか、ボランティアで赤十字や博物館のfund raiser (基金調達者)として大活躍してきたNは、7月の中旬に生活の拠点を故郷のレバノン、ベイルートに移した。

これからどんな生活をしようか模索し出していた矢先に、8月4日のベイルート港爆発事故に見舞われた。港の方から煙が見えて、あれーと思って窓に近づいていったその瞬間にドカーンという音とともに家の窓ガラスが全部割れて、飛んできたガラスの破片を体の至るところに受け彼女は負傷した。

割れた窓ガラスの一部が心臓につき刺さった隣人もいる中、奇跡的に彼女の傷は軽傷ですんだという。

ロンドンを発つ前は、「外国で教育を受けたから、ベイルートには家族と親戚がいるだけで、友達が少ないねん。友達作りも1からはじめなあかんし、これから何をしよかな~!」と言っていた友人。でもこの爆発事故で彼女の人生も変化していくことに。

今回の大惨事で30万人が家を破壊されて、住む場所を失ったという。

汚職まみれで腐敗した現政府と政治システムを今こそ自分たちの手で変えていかなければならないと宗教、政治的背景を超えて人々が立ち上がり出した。特に若者のボランティアの救援活動はすごいらしい。そして私たちの友人Nも立ち上がった。

全てを失った人もが他の犠牲者を助ける人々の連帯感と若者の熱意に押され、彼女の中でも何かが固まってきた。「ベイルートを立ち直したいし、自分もその一部になりたい。」と言う友人N。

彼女はもう社会活動をし始めている。爆発事故の直後は彼女も街に出て他の人を助け出し、日々デモにも参加。有識者と若者と連携して近々討論会も企画している。私たちは皆いつも彼女に「政治家になったら」と言ってきたが、本当にベイルート市の市議員を目指すかもしれない。

ほんの8年前には子供達の教育や受験をお互いコーヒーを片手にあつく語った私たち。

その子供達も社会人や大学生になった今、私たちはこれからの人生を見つめ直す時期に入っている。一大事故が原因と言え、自分のやるべき道を見つけたNは、輝いて見えた。

ビデオコールを終えて、私もいろんな思いを巡らせた。何よりもベイルート市民が安定した生活を取り戻せるよう、友人Nが元気で無事に活動を行える事をつくづく願う。

親友との時間

今日は親友のPatty (本人が実名の使用を了解してくれた)と16歳になる彼女の娘、そして私達親子の計5人でランチ、散歩、お茶の女子会を楽しんだ。

Pattyとは子供が同じ幼稚園で、かれこれ20年らいのお付き合い、いわゆるママ友同士。

Pattyはオランダ人、典型的なオランダ人以上に気さくでフレンドリー、最高にいい人だ。

本当に超がつくほど子煩悩で、またどの人にも優しい。彼女には4人の子供がいるが、まだ子供が小さかった頃、一番手が空いてなかった彼女に、どの人も「Patty、ごめん今トイレに行きたいからちょっとうちの子を見ててー!」とたのんでしまったり、泣いてる子でも彼女が抱っこすると、すぐに泣き止んで、どの子供にも愛され、どの親にも頼りにされていた。

Pattyの家族は以前うちのむかいに住んでいて、ホリデー、クリスマス、ハロウィーンと年中行事をいつも一緒に楽しんだし、私の娘たちにとって彼女は家族同然の存在。

そう言えば、彼女は昔、ロンドン金融街で某銀行に勤めていたが、英語で苦労している日本人ビジネスマンをたびたび目にして、気の毒に思った彼女は自分が日本語を学んでその人達の役に立ちたいと思い、日本語を勉強していた経験もある。彼女らしい話だ。

とにかくそんな大好きな二人と逢えるとなって、私達は朝から気分がウキウキしていた。

今日散歩した道は、これまたテムズ川ほとり。でも土曜日に行ったテムズ川とは反対方向のロンドン西部のハマスミスからさらに西のバーンズ」。

このあたりは緑豊かな住宅街で、素晴らしい豪邸がいくつも続く。同じロンドンなのに郊外に来た気分になる。

ハマスミスブリッジはただ今通行止め中。外観だけで判断するとテムズ川にかかる橋の中でタワーブリッジの次にきれいなのはアルバートブリッジと並びハマスミスブリッジじゃないかな?

ロンドンの中でもこのあたりはとてもイギリス的な印象を受ける場所。観光ルートじゃないけれども、ここやさらに西にあるリッチモンドもおすすめの散策道だ。

素敵なパブも川沿いにある、今日はハマスミスでは名のしれたOld Shipというパブでランチ。

親友のPatty 

私はハンバーガーを食べてしまったが、Pattyと彼女の娘のKはFish and Chipsを注文した。

「あーなんでFish and Chipsにせえへんかったん!」後から大後悔。一口もらったFish and Chipsの方が断然美味しかった!

この夏は日本に帰れず、夫とも日本の家族や友人ともあえなかったので、Pattyをはじめロンドンで出会った、家族のよう友人達の存在が身にしみるほど有難い。

故郷を離れたどの人も、違う土地で出会った友が、家族のような存在になることがあると思う。

この広い世界の中から出会えて、友情を育んでいった人々に心から感謝。