ご近所さんS

昨日は仲良しのルーマニア人姉妹MとDと、近所の友人S宅に遊びに行ってきた。

雲一つない空の下、そよ風が気持ちよく通り抜けていくSのお庭でいただいお茶は格別に美味しい。

Sは若い頃はモデルをしていただけあって今でもとても綺麗で、10歳以上は若く見える現在82歳のドイツ人女性。

最愛のご主人を亡くし、ドイツにももう親族が残らず、子供もいないSは「家に引きこもる人生は絶対に送りたくない」と言い、毎日いろんな所に出ていき、若者とも交流しいつ見てもイキイキしている。

MとDとは週に二回Sと一緒にジムに通い、Sは行きつけのヘアサロンからは誕生日には大きな花束をもらって祝ってもらい、行きつけのカフェでは毎回割引してもらい、そこのギリシャ人のマネジャーとは友達になり二人は毎週火曜日にロンドンのいろんなエリアを散策に行く。

ある時は彼女と一緒にパブにいると、まだ30代ぐらいの男性がSに寄ってきて、Sの手をとり彼女を口説き始めた事もある。

Sを見ていると、自分も80代になったらSのようになっていたいなと希望を与えてもらえるし、年齢的に亡くなった自分の母を思い出させるのか、彼女の力になりたいなとこちらを思わせる人としての魅力をSは持っている。

Sには彼女の人生を本に書いて出版したいと言う夢がある。

彼女のご主人は生前映画関係の仕事をされていて、Sは多くの著名人と交流する機会があり華やかな世界を見てきた。若い頃はまだ反ドイツ感情の残るパリに住んでいたSはドイツ人としてのアイデンティティーを隠してモデルをしていたり、信じていた人に詐欺にあったりと彼女の人生には話のネタが尽きない。

どうしたらSが出版にこぎつくかとみんなで色々提案しながら、今回はとにかくインスタグラムを始めて、彼女のロンドン散策をストーリーにあげて、フォロワーを集めてみてはどうかと言う事になった。

毎週火曜日にSがロンドンのいろんな場所を散歩に行く時にストリーを公開する。

人生大好きな82歳の女性がロンドンの素敵で面白い所を見せる事だけで、誰かにインスピレーションを与える事になるかもしれない!

おかしいことにすでにインスタグラムのアカウントを持っていたSは、自分がインスタグラムのアカウントを持っている事を知らなかった、友人の誰かがSのアカウントを作成したようだ。

MがSにインスタグラムの投稿の仕方を教え、早速Sは彼女のお庭に咲いている花々をインスタグラムに投稿、こんな小さい事から世界とつながれるとSは喜んでいた。

新しいことに挑戦し、友達がたくさんいるSはまだまだ元気でいてくれる事と思うし、周りの私達もそうであって欲しいと願う。

お茶をいただきながら、いろんな世代の友人がいる事がいかに有難い事かとしみじみと感じた。

母亡き後、この夏また日本に戻れなかった私にとっても、人に恵まれ、近所にもお互いをいたわりあう素晴らしい友人との出会いがあり、ロンドンが本当の意味のホームになってきた。

ちょっと前には反移民の暴動も起きた英国だけれど、その何倍もの反右翼、移民擁護の人達が通りに出てきて本当に心強い事や!

爽やかな夏の午後、私はなんとも心暖かく帰路についた。

Goodbye Summer of 2024!

 

天皇陛下が来られた!

先日天皇皇后両陛下がイギリスを公式訪問された。

別に特別な皇室フアンでもない私だけれども、天皇皇后両陛下は人生でそう滅多にお目にかかれる方でもないし、自宅からそう遠くないHigh Street Kensington にあるJapan Houseにいらっしゃるというので、次女と2人いざJapan Houseに向かった。

Japan Houseに着いたら、運よく一番沿道に近い場所はまだ1人、2人は並べるスペースがあったので、すぐさまそこに入り込んだ。あたりを見回すとすでに結構な数の人が集まっている。

沿道に立っている私達には、いろんな人が「誰が来るの」と尋ねてくる。「The Emperor of Japanよ」と答えると「Oh that’s cool (すごいやーん!)」とそのまま並んでる列に参加する人もけっこういた。

待ち時間中も面白かった。それぞれが隣に並んだ人達とのおしゃべりを楽しんでいる。「日本人の友達に天皇陛下の写真をとって見せてあげるねん」と言ってたイギリス人の女性は村上春樹の大フアンで、同じく村上春樹のフアンである娘と意気投合、私はJapan Houseに入っている日本食レストランに働く日本人女性とたまわいない会話を楽しませてもらった。

日本人とイギリス人のハーフの娘の友人は、具合がよくないにもかかわらず通りを挟んだ向かい側に立って待っている。その時は気づいていなかったけれども、私の反対側には友人の家で働く家政婦さんが立っていて、彼女は天皇陛下ご夫妻を待っている私の姿を写真に撮って、レバノンにいる私の友人に送っていた。

時には警察の間で緊張感が感じられると思うと、群衆の中にいた若者2人が警察に連れて行かれたり、急にマイクを持った男性が現れるや「天皇陛下や王族、皇族は御伽噺のような話だ、子供たちにはそんな話を信じないように教育していかなあかん」と叫び出した。

そして待つ事1時間半、日本大使館で働くイギリス人の女性が「もうすぐ陛下ご夫妻がおつきになる」と教えてくれたその時、白バイの警察がやってきて視界には黒塗りの車が何台も入ってきた。

その数分前歩行者は警察にJapan Houseの前を通るのを止められた。それでも何も気づかず私の横を通ろうとした女性がいて、その女性は私の前に立ち止まるはめになった。

えーなんで、今あんたが私の視界に入ってくるん?

車が止まると歓声が響きだし、私も含め誰もが写真を取り出した。急に前にやってきた女性の為に余裕で全てを見れる状態のはずだった私は、天皇皇后両陛下を見ることより、とにかく携帯を高くもち、写真を撮り続け、見えないものの雅子さーんと叫びつづけた。気がついたら、雅子さんはいらしゃらないし、天皇陛下はJapan Houseの中に入られる瞬間。え~何やってんの私!

ただ私の写真には陛下がバッチリ写っていた。

ここまできては、陛下がおかえりになる時こそはバッチリとそのお姿を見たいと思い、そのまま陛下が出てこられるのを持つことにした。さっき隣でおしゃべりをしていた女性は最前列で携帯を構えている。同じく最前列にいるはずだった私の前にはどさくさに紛れてインドネシア人の旅行者が立っている。「あかん、あかん、今度こそ絶対この目でちゃんと陛下を近距離で見な!」と写真撮影は娘に任して、私は声援を送ることにした。

20分後、天皇陛下が出て来られた。

うわーすごい、本当に日本の天皇陛下が目の前にいらっしゃる、やっぱり大感動!

陛下はご丁寧に待っている見物人、全ての方向にお手を振ってくださった。

そのお姿に陛下の誠実なお人柄が伝わってくる。

私の後ろにいたイギリス人の若者が「おいなんか言おうぜ、かわいい、ありがとうございます」と声をかけ出した、私もありがとうと声援を送った。

その後興奮が覚めぬまま、私と娘は丸亀うどんにランチに行き「凄い経験やったな、もしかした私らもテレビに写ってたかもな」と先ほど撮った写真やビデオを見ながら感慨に浸っていた。

そして翌朝、日本にいる友人達からLineメッセージがきていた。

「天皇陛下を待ってる姿テレビに写ってたで~!」なんと日テレのニュースに私が写ってる、それもはっきりと!

翌々日もYou Tubeのニュースで私を見たよというメッセージがやってきた。

今まで天皇関連のニュースをあまり見る事はなかったけれども、これで一気に天皇皇后両陛下のフアンになった私、ちょっとした笑いと喜びをもたらせてもらった1日に、両陛下に大感謝!

ありがとうございました!

移民について

ロンドンは多民族、多国籍都市とわかっているつもりでも、時々ロンドンの移民の多さを痛感する事がある。

私も、オーストラリア人の夫も移民。私が住んでいる地域も、お隣さんもいろんな国から来て外国人が共存しているのがロンドン。その上世界各国からの観光客が日々訪れるので、ロンドンの町中は世界中の人々で混ざり合っている。

それでも各コミュニティーが集まるエリアがあって、そこにいくとスリランカ人、インド人、ポルトガル人、フランス人、ルーマニア人、ブラジル人が多いといった光景が見られたりもする。

最近行ったロンドン北西部のWembleyはインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ人コミュニティーのコミュニティーがあり、しばしミニインドと呼ばれている。

モスクも近くにあった為か民族衣装を身に包んだ人々が通りを行き来していたし、街にはインドやスリランカの結婚式用のドレスを売るお店、結婚式用のジュエリーを売るお店、インドの食料品店、インド甘党やさん、南インドのレストランが溢れている。まるでインドの街角をそのまま移動させてきたようで、そこにいるとインドに来た気分にさせてくれる。

これを見ると本当にロンドンと言う街、イギリスの懐の大きさに感心させられる。

よくもこんなに多くの外国人を受け入れてきたもんや!

イギリス人と会いたかったらロンドンを離れて郊外、田舎に行かないと曽祖父、母の時代からイギリス人の人達とはロンドンではなかなか出会わないと言われる。

ロンドンではイギリス人であってもパートナーが外国籍、または親が外国籍で本人は英国生まれのイギリス人といった人が多く、誰かしらどこかの外国と繋がりのある人が多く、イギリスのパスポートを持っていても自分はイギリス人と認識していない人もいて、何を持ってイギリス人と認識するかは人によって違う。

もちろん移民がやってくるのを反対している人達も多い。特に不法に入国してくる人々が後を絶たない今、移民そのものよりも、政府の移民対策に対して不満を募らせる人が多いのも事実だ。

確かにこんなに多くの移民の人達を見たら、みんなどうやって居住許可を得たんかと不思議に思ってしまう。イギリスで正規に居住可能なビザを所得するのは超難関だからだ。

最近では不法に英国に入国し、難民認定を申請しようとする人達をアフリカのルワンダに強制的に移送する為の法案が英国議会で可決され、この夏頃から本格的に移送が始まるという。

残念ながら今、日本の埼玉県川口市ではクルド人問題というのが存在する。今朝もYou Tubeを見ていると警察官を暴行するクルド人というタイトルの動画を目にした。

イラク、トルコ、シリア、イランに少数民族として住むクルド人は国家を持たない。日本在住のクルド人のほとんどはトルコ国籍で、彼らはトルコ政府から迫害を受けてきたと日本で難民申請をしているらしい。

30年ほど前、トルコのクルド人移住地域をバスで旅をしていると、何度もトルコ軍がバスを止め、クルド人の風貌をした人はみんなバスから下ろされ、身体検査を受けているのを目にしてきた。

1日も早く日本政府は移民政策を改善しないと、外国人居住者、旅行者が増えた日本が移民嫌いの国になり、移民の子供達が日本社会の一員になり辛くなってしまう。

折しも、今日はイラクのクルド料理のレストランに行ってきた。

このクルドレストランでは、ケバブとライスを注文するだけで、サービスで豆とターメリックのスープ、ホムス、サラダ各種、パン、オクラ、豆のシチューが一緒についてきて、食べ応えたっぷり。

クルド料理をいただきながら、国家を持たない、持てない民族の事を思った。

日本でもクルド料理を楽しめる環境がいつかは整うんだろうか?

移民問題は本当に難しい。

だからこそ私は日々外国人としてロンドンで平和に生活できている事をイギリス社会に感謝している。

クルド料理

Notting Hill Carnival

毎年8月最後の週末は、月曜日が祝日で3連休になる。そしてこの連休の日曜日と月曜日は、ロンドンのNotting Hillでは大きなカーニバルが開かれる。

第二次大戦後、労働力の足りなかったイギリスにカリブ海沿岸諸国のジャマイカ、セントルシア、グレナダ、トリニダード・ドバコなどから多くの人々が移民してきた。

彼らの多くは、今では映画のロケでも有名になったNotting Hillの北側に住むようになる。

当時のロンドンでは人種差別が激しかったらしく、カリブ海沿岸諸国からやってきた人々は、度々人種差別の標的にされていたと言う。ついに1958年にはこれに対抗して暴動も起きてしまった。

その後人種差別問題解決策の一環として、1966年にカリブ海沿岸諸国の文化の祭典である、カーニバルが毎年開かれる事になった。

カーニバルを運営する英国カリビアンコミュニティーの人々は、ダンス用の衣装、装飾、ダンスを何ヶ月もかけてカーニバルの準備をする。

日曜日はコミュニティーの子供たちが、月曜日は大人がメインで音楽に合わせて、ダンスをしながら通りを進んでいく。各山車にはミュージシャンが歌を歌い、音楽に合わせてたくさんの人がその周りで踊る。衣装はとてもカラフルで、ダンサーも見学者もノリノリで踊り、みんなとても楽しそう。

このカーニバルに参加する為に、多くの人がロンドンにやってくる。

私はNotting Hillに隣接する地区に住んでいるけれども、日曜日の朝カーニバルが始まる前にでかけた時は、ジャマイカの国旗を身にまとう家族連れ、ビキニ姿やもうすでに興奮しまくっている若者が大勢Notting Hill方面に向かって、笛を吹きながら、音楽を聴きながら歩いていた。

大きな声を出して歌って踊る事は楽しい以上に、日頃のちょっとしたストレスをも発散でき、まさにそれがカーニバルの醍醐味。普段は日常品を売っているパキスタン人のお店も、この日だけはベットボトルのお水のほか、ジャマイカの国旗や笛を歩道に出して売りさばいて、音楽もレゲエを流して商いをしている。

でも残念な事にこの間、スリを筆頭にちょっとした事件が発生するのもカーニバル。

今年はそれほどひどくはなかったものの、ナイフでの暴行事件もよく聞く話だ。毎年このような事件が発生する為今では通行規制が設けられ、かなりの数の警察が動員され、それ事態もちょっと緊張感をうんだりする。

カーニバルの山車が家の前を通る友人は、この時期は必ずロンドンにはいないようにしているし、その友人の隣人は、カーニバルの間自分の庭で酔っ払いにおしっこをされると言う迷惑な被害を何度も被っている。外がガラス張りになっているお店は窓にベニア板を貼り付けて防御をしているし、近所の日本食材店で働く女性も、カーニバル当日は酔っ払い客が増えるので、ちょっと怖いと言っていた。

実は私はカーニバルにはいかなかった。日曜日、近くまで行ったけれどもあまりのゴミの量、特にビールの空き瓶、空き缶や人混みを見て行く気が失せてしまったからだ。

それでもやっぱりカーニバルは多くの人に愛されている大事なロンドンイベント、後になって行かなかった事をちょっと後悔!

カーニバルが無事終わったときいてホットしたし、ご両親がセントルシア生まれの同僚が、この日は自分の娘を両親に預けて、同じカリブ諸国のルーツを持つ友人とカーニバルにやってきて、思いっきり踊って楽しんだって聞いた時はとても嬉しくなった。

何よりもカリビアンコミュニティーの人々が自分たちの文化を楽しみ、誇れる場があるって言うのが一番大事な事だと思う。

スクワッター

イギリスではスクワッターと呼ばれる、空き家や空きビル、居住者が留守中の家屋などに占領して無断に住みつく人達がいる。

私も30年ほど前に、スクワッターとして空き家に住んでいた知人を訪ねたことがある。

その知人はもちろん家賃を払わず、電気も何か細工を仕掛けて無料で使っていた事を除けば、ごく普通に生活していた。

知人はお金が全くなかった訳ではないけれども、病弱で休職中だったのと、実家と仲違いしていて、親には頼れない立場にあった。

社会現象だったかどうかはわからないけれども、70、80年代のロンドンにはかなりの数のスクワッターがいたと言う記事をよんだ事がある。

でも最近ではスクワッターなんて言葉は聞くことがない。

それが6月から、隣のアパートの地下、正式にはベイスメントと呼ばれている地下の、ひさしがある入り口にスクワッターが住み出した。

うちのアパート(イギリスではフラットと呼ばれる)の隣の建物は、このあたりの自治体が建物全体を買い上げて、高級アパートにリフォームされる予定。ただまだ我が家を含め近隣の住民が、自治体が示すリフォーム案に賛同していない為、工事は先延ばし状態になっていて、隣の建物はしばらく空き家となっている。

どこでどうその情報を聞き付けたかはわからないが、しばらくしてからホームレスの人が、ひさしのあるその場所に夜だけ寝泊まりに来るようになった。

スクワッターが来るたびに、近所の誰かが警察に通報して、警察が退去をいいにやってきたりしていたけれども、スクワッターは室内にはいったわけではなく、入り口先にいるので、不法侵入にはならずに逮捕はされる事はない。

だからか、しばらくするとまた別のホームレスの人がやってきてそこに居座るようになり、また誰かが警察に通報して退去といういたちごっこが何度か続いた。

そしてある日、外見的にも小綺麗で、穏やかな感じの男性が住み出すようになった。

その男性と話す我が夫も「このスクワッターはめちゃくちゃ礼儀正しいし、仕事もやってるらしいで、故郷(カーボベルデ)には4人の子供もいて、何があったかわからんけれども、大変そうや、早く家が見つかってほしいなー」と言って、気の毒で、警察に通報するどころか「空き家が必要な人はどうしたらいいか」なんてスクワッターの為に地上自治体に電話をかけたりもしていた。

それでも日が経つにつれて、多分そのスクワッターの精神状態が不安定になってきたのか、彼の居場所はかなり散らかりだし、食べ残しがそのまま放置されたりして、さすがに近所の住民もスクワッターの存在に辟易しだし出した。

夫が「どうなってるんや」とスクワッターに尋ねると、その彼は「自治体が部屋をみつけてくれたので、来週の水曜日にここを立ち退く予定やねん」と言う。

スクワッターの大量の荷物を見て、夫が「ちゃんと片付けて、綺麗にして出て行ってくれよ」と言うと「この荷物は貧しくて困っている人に寄付する服やねん」と言ったそう。そのスクワッターはいろんなところに捨てられている服を拾ってきて、それらをチャリチィーに寄付をする予定だと言う。

そのスクワッターが去る時、自治体からか、ソーシャルワーカーが来て彼の引っ越しを手伝っていた。

私が出先から戻ってくると、今までスクワッターがいた場所は、かつてないほどきれいに片付けられ、入り口には頑丈な鎖がかかっていた。

イギリスではもし空き家や空きビルにスクワッターが12年以上住み続け、それを証明する事ができたら、Squatter’s Rightsと言って、法的にスクワッターがそこに住む権利を得る。そんな事があるので、スクワッターには誰も長く居着いてもらいたくない。

確かにゴミの問題やら、治安の問題とか、スクワッターに居着かれるのを好む人はあまりいないだろう。

でも、人生で住むとこがないって言うのはほんとに大変やね。

隣にスクワッターがいるのは嫌やけども、あのスクワッターさんの今度の人生がよくなっていく事を心より願う!

まだ比較的片ずいているときの様子

それぞれの戴冠式

この週末、英国ではチャールズ3世の戴冠式が行われた。土曜日が戴冠式、日曜日はストリートパーティー、祝日である月曜日は、コミュニティーでのボランティア活動が奨励されていた。

土曜日は、歴史的瞬間をひとめ見たいと、国内外問わず多くの人がロンドン市内にやってきて(なぜかアメリカ人が多い気がする)朝早くからパレードが通る沿道に並んでいた。

ヨークシャー出身の長女の友人も「今までは全ての出来事をテレビで見てきたけれども、首都に住む今はどんなイベントも逃さない」と張り切って、バッキンガム宮殿近くにかり出していた。

私はというと、天候も悪いし、自宅のテレビで戴冠式を見る事に決めた。国王になる儀式を見たいと言うよりも、誰がゲストとしてきてるのか、ハリー王子は大丈夫かとかミーハーなノリでのテレビ観賞。

ちなみに王政反対のオーストラリア人の夫は、頑として戴冠式を見ることを拒否。雨にも関わらず買い物に出かけていった。

この日、王政反対、共和政支持者はデモをしていて、何人かは逮捕もされていた。プラカードだけを持つ、静かなデモにもかかわらず、逮捕者がでた事に今疑問の声が上がっている。

王室が必要かどうか、これに対しては千差万別の意見がある。

戴冠式に割り当てられた莫大な費用(税金)を、医療関係者の給料にあてるべきと言う正論もある。確かに王族はみんな資産家なので、せめて戴冠式にかかる費用の半分ぐらいは払う事も容易にできたはず。でも伝統を重んじる人々にとっては、こんな提案は受け入れられない。

私としては、自分自身が選挙で選んでない、国民の意見を聞こうとしない政治家が自分の国の頭になるよりも、皇族、王族が象徴として国の頭でいる方がいい。チャールズ国王は、環境問題にも関心があり、いろんな意識が高い人で、国民感情を気にかけている人に見えるし、いい人との印象をうける。戴冠式前日の金曜日には「今週末は戴冠式を楽しんでください」と国王直々、ロンドン地下鉄でアナウンスをした。これってなんかとっても微笑ましい。

ただ、ダイアナ妃がいるにもかかわらず、カミラ夫人とずっと不倫関係にあった事を決して受入られない人がいるのも事実。「カミラが女王と呼ばれるのは許せない」なんて言う人も多く、私の同僚の中にも、カミラ夫人大嫌い人間がいる。

私としては、確かにダイアナ妃には気の毒だけれども、チャールズ国王とカミラ夫人は昔からずーっと好き同士で、そんな事実の中で、王室のしきたりのせいで2人が結婚できなかった事が、悲劇の始まりだったように思う。女王に任命された夫人と並び、チャールズ国王はすごく嬉しそうな表情をしていた。

日曜日はいろんなところでストリートパーティーが開かれていた。私は友人と集まり、夜一緒に食事をした。ストリートパーティーに参加している友達の写真を見ると、コンサートに使われるような大きなスピーカーで音楽をながし、路上ディスコパーティー状態になっていた。

でもほどんどの人は王政がどうのこうのと言うよりも、休みが1日増えた事に感謝しているはず。戴冠式を祝う為のストリートパーティーと言うよりも、みんな隣人や友人と楽しいひと時を過ごせるのが嬉しいはず!

今日はいろんなところで、地域のコミュニティーでボランティア活動を奨励していた。

私が働く学校でも「月曜日はなんでもいいからボランティア活動をしてください」と子供達だけでなく、父兄、卒業生までにも呼びかけてた。私は友人と公園に行って、ゴミ拾いをする予定だったけれども、最終的には断念。どれぐらいの人が本当にボランティア活動をしたかはわからないけれども、祝日に人助けを奨励するのが、なんともイギリスらしい。

みんなどんな思いを持っていたにせよ、それぞれの戴冠式ウイークエンドを楽しんでいたはず。

先週のメーデーの祝日に続き、3日間のおやすみは本当に有難い!

救急外来

先日、次女が転んで右足を怪我した。すぐに夫が病院の救急外来(Accident and Emergency)に娘を連れていき、その日は骨折はなしとの診断を受けた。

後日、レントゲン結果で不明な点と血栓の疑いもあるとの事で、また戻ってくるように病院から指示を受け、夫がまた救急病院に娘を連れていった。

初回に病院に行ったのは火曜日の真夜中12時で、2人が家に戻ってきたのは午前3時半。待ち時間は2時間でこれは予想通りの結果。

翌日夫と娘は「真夜中の救急外来には、なんか不思議でもの悲しい光景が広がるわー」なんて言いながら、アル中になり全てを失ったと言う男性が、夫の横に座り自分の人生を夫に語り出した事、「もう3日間何も食べてないから、倒れそうや」とい言いながらレセプションに入ってきた女性、その女性にサンドイッチをあげていた看護師の話、大量のボリュームでTik Tokを見てた若者がご機嫌悪そうな看護婦に、ものすごい勢いで注意されてた事など感慨を込めて語ってくれた。

でも2度目の救急外来の経験は初回と違い、医療現場の大変さをしみじみ感じたよう。体力が消耗していた娘は思わず2度泣いたと言っていた。

夫と娘が2度目に救急外来に着いたのは金曜日の午後6時、とても混んでそうな時間帯だったけれども、病院からすぐに来てくださいとの電話が入ったので、長い夜を予感した2人は軽く食べてから救急外来に向かった。

午後6時にレセプションに着き、家に戻ってきたのは翌朝の午前3時。外来に着いてから担当の医者に緊急手術が入ったのと、順番後2人と言うところで、また緊急の患者がきたので、娘と夫は9時間も待つはめになった。ちなみに9時間あれば、ロンドンからドバイに飛行機で到着する。

その夜、夫と娘が目にした光景はドラマの脚本になるような強烈なものだった。

待合室はとても混んでいて、どの人も疲れきった表情をしている。

まずは、息ができなくて苦しいとうめきだす女性が娘の隣に座り、その女性はまる2時間ずーっと泣き続けていた。

前方には、怒りに満ちて、横柄な感じの中年男性が電話をしながら歩きまわり「俺はいつも人によくしてるのに、なんでこの俺がこの待遇を受けなあかんねん」とかなんとかと静かな待合室にいた人全員が聞こえるぐらいの大声をはりあげて話ていたらしい。その後その男性はどこかに消え、その間に看護婦が出てきて「ミスターなんとか」と消えた男性らしき人物の名前を呼んでいる。

しばらくすると男性は戻ってきて、レセプションに自分の番はまだかと聞いた。

「あなたの名前が呼ばれた時にあなたはいませんでしたので、あなたのリクエストはキャンセルされましたよ」とレセプショニストに言われた瞬間、その男性は、怒り狂い出し「俺は医者や、医者やから自分は今にも倒れそうなんがわかるんや~、どおしてくれるんや、早く医者にあわせろ」とすごい剣幕で怒鳴り始めた。その男性のとった態度はあまりにも偉そうだったらしい。

ずーっと大声でうめき声をあげている男性が入ってきたと思えば、肩を脱臼した女性がキャー、キャーと始終叫び声をあげ、またもや娘の隣に座る。

疲れきって、頭がボーッとしている時に、娘の前方に身長が2mはありそうな、背が高くて、いかつい姿をした男性が登場、とその瞬間その男性の後ろに鉄のチェーンでつながれ、手錠をされ囚人服姿の男性が現れた。その囚人は異様なまで不気味な笑顔を周りの人間に投げかけ続け、娘は囚人と一瞬目があい、その瞬間震え上がったらしい。

夫も「やっぱり囚人にはあれぐらい厳つい、いかにも訓練されてるボデーガードがついているんやな~」と感心していたほど、その光景は映画のワンシーンのようで、囚人はともかく、セキュリティーガードはファションといい、マフィアのような感じだったらしい。

次に怒りとイライラをセキュリティーガードに向け、ブツブツ言いながら中年の女性が待合室に入ってきた。その瞬間その女性は「やめて、こんな所に私を残さんといて、見て~やみんな外人ばっかりやん、こんなところでまつん嫌や~」と叫んだらしい。確かにそこにいたのはみんな外国人っぽい人ばっかりで、差別的発言と捉えられるものの、その女性もご先祖様は外国人とわかる容姿をしていたらしい。

何よりもハイライトは、具合の悪そうな娘を連れて入ってきた中年女性。レセプションで「娘は息ができにくく今にも倒れそうやから、今すぐ医者にみてもらって」と大声で叫んで入ってきた。

娘が診察してもらっている間、一度外に出ていった母は、戻ってくるなり看護室のドアをノックし、娘がどこにいるか聞き出した。「今他の患者さんを診ていますから、ちょっと待ってください」と返答されたその母は、それを聞いたとたんにブツ切れ状態になり、ジャマイカ訛りの、しかも聞き取りにくい方言で約10分以上、大声で全てを罵り出し始めた・

待合室はシーんとしていたので、本当にその女性の1人芝居だったそう。

しばらくして、セキュリティーガードやってきて、女性をなだめ始め、女性も徐々に落ち着きを取り戻したらしい。

後になって、娘と一緒に帰路につく際、さっきはあんなに怒っていたのに、何事もなかったようにレセプショニストに笑顔でバイバーイと手を振って帰って行った女性の姿に、みんな呆気に取られていたと言う。

体力消耗して戻ってきた娘と夫。でも今回の経験でさらに医療関係者への感謝の気持ちが高まったとと2人は言う。

医療関係者の皆さん、日々言葉の暴力にも耐え、本当にお疲れ様です、そしてありがとうございます。

ロンドンの猛暑日

先週の月曜日と火曜日のイギリスは、観測史上初の暑さに見舞われ、ヒースロー空港では41度まで気温が上昇した。

その前の週から気温上昇の対策や警告予報が出されていたので、どの人もある程度の覚悟をしていたと思うけれども、はい、やっぱり暑かった。

ロンドンはちょっと雪が降っただけで、交通機能が麻痺してしまうけれども、猛暑日も同じ。

暑さで鉄の線路が曲がってしまったり、不要な外出は控えるように政府が要請したと思えば、それを受けて今日は仕事に行きませ~んと言う人が出てきて、電車や地下鉄の駅員が人手不足になり、駅が閉まる、それで人が通勤できなくなる。

夫も最寄りの駅に朝着いたら駅が閉まっていたらしく、仕事場でも多くの人が在宅で、オフィスに出てきたのは二、三人とか。ブティックを経営しているご近所さんは「うちの店にはエアコンがないから月曜日と火曜日は店は閉めるねん」と言ってたし、当日は「月、火は休業します」と言う貼り紙をはっているお店をちらほら見かけた。

私は月曜日の早朝、公園に散歩に行った。この日は外でのジョギングは控えるように政府が要請していたのもあってか、ほとんど走っている人は見かけなかった。

まあ暑かったって、月曜日は風さえ吹いていなかった。私は家の中の一番涼しい場所で、ほぼ裸に近い格好で読書をしていて、日がくれてからはバルコニーで座っていた。

火曜日の午後はエアコンがギンギンかかっているカフェで過ごす予定だったけれども、行きたかったカフェはどこも満席、コンピューターと共に半日は座る覚悟で来ている客でいっぱい。

レストランを通るたびに「エアコンきいてます」のサインを見かける。エアコンがきいてる店でランチをした後、これまたエアコンがきいているスーパーで買い物をして、後は影を求めて家路に!

7月の平均気温は21度前後で、湿気がないロンドンではエアコンの普及率はとても低い。実際熱帯夜を経験するのは年に2日ほど。我が家の場合は風の通りが良くて、夜はいつも気持ちのいい風が吹いてくれるので、エアコンがいると思った事は今までなかった。

でもここ数年、地球温暖化が進み、確実にイギリスの気温は毎年上昇している。

毎年夏になると、暑い中東の産油国からアラブ人が避暑の為にロンドンにやってくるが、彼らのロンドンホームにはエアコンが設置されてるのかな?避暑にくる意味がなくなる。これからはエアコンを買う人は増えてくるんだろうか?

でもエアコンなしで、こんなに暑かったら食欲も落ちるし、料理をやる気も失せてくる。

月曜日は長女がベトナム料理のライスヌードルの上にエビや野菜をのせたブンを作ってくれた。

火曜日は朝いちでさばそぼろを作っておいて、卵とインゲンとで3色丼をいただいた。暑いからお味噌汁はなし、ただ中華風の叩ききゅうりを作ったら、暑さにあうのか食が進んだ。

きゅうりを棒で叩き潰し、そこに砂糖、米酢、ラー油、チリペッパー、豆板醤、お醤油で絡めるだけの即席料理。ビールでもあれば最高のコンビネーションだったはず。

有り難いこと火曜日の夜、少し雨が降り気温が下がり、そのまま水曜日はいつもの過ごしやすい26度ぐらいに戻った。

あー2日間といえど、ロンドンにいる限り35度以上の気温はやめてほしい。

私の夫とBoris Johnson

7月7日、英国首相Boris Johnsonが辞任を表明した。

我が夫はBorisの事をナルシストと呼び、Borisが大嫌いだ。まだBorisがロンドン市長だった頃から「Borisは自画自賛ばっかりして、絶対にいつか首相になるつもりや、もしこいつが英国の首相になったら、僕はこの国から出ていく!」と宣言してきた。

Borisが正式にイギリスの首相になったのは2019年7月24日、そして翌月の8月30日に夫は仕事の為にオーストラリア、キャンベラに行く事になりロンドンを去っていった。

この間の3年間、世界はコロナという新しい問題に直面し、世の中がどんどん変わりはじめた。

そして約3年と言う時間が過ぎ、夫の仕事も契約が完了して、7月6日に夫はロンドンに戻ってきた。

翌日家族間でやっているラインのメッセージを見ると、長女が「パパ、マジックパワーを使ったん、パパが帰ってきたからBorisがやめたやん」夫は「そうや自分のマジックパワーでやつをやめさせたんや~」とBoris Johnsonの辞任のニュースを聞いて私の家族は大興奮。そのやりとりはその後42通も続いて、仕事の合間合間に読みながらも私は大笑いさせてもらった。我が夫はかねてから宣言したとおり、Borisが去ったのでロンドンに戻ってきた。

コロナ禍、国民に室内での人との接触を自粛しろと言い続けてきたBoris、でも彼自身は政府機関で何度かパーティーをひらいて参加していた。これが見つかっても辞任は頑なに拒否し続けてきたBorisだけども、さすがに先日重要閣僚が相次ぎ辞任し、党内部からの退陣圧力が高まったことで今回の辞任につながった。

Borisは国民に好かれたい気持ちが異常に強い政治家。おそらく目の前にいて一緒に話をしていたら彼に好感をもってしまうかもしれない。でもBorisの政策をよく知っている長女や夫からしたら彼の政策は受け入れられないらしい。

長女の友人の父親は、保守党の政治家でBoris Johnsonの高校、大学時代からの友人。その人物でさえ6月にBorisに抗議して辞任した。

名門校であるイートン校、オックスフォード大学を卒業したBoris、オックスフォードでは特権階級だけが入れるエリートクラブ、ブリンドンクラブに所属していた。Boris的には常に、まあいいか、今回も大丈夫やろ的な、自分には権利がある気持ちがすごくあったんじゃないだろうか。

彼の先祖を見ていると、イギリスの国王 George2世、オスマントルコの内務大臣だったAli Kemal、YMCAの創設者George Williamsと歴史的に名を馳せた人物がいる。英国の特権階級に属し、恵まれた環境の中で育ったBorisには一般国民の生活を真に理解する事ができなかったんだろうし、理解しようとも思ってなかったんじゃないだろうか。

この先Borisはどんな仕事を選んでいくかしれないが、彼の事だからテレビに出演したりと相変わらず世間を騒がすような存在でいるに違いない。過去には英国の大人気番組でケーキ作りの名人を選ぶThe Great British Bake Offに出演したいと言っていた事もある。

政治家として生きていくよりも、世間に好かれるコメンテイターやセレブリティーとしてい生きる方がナルシストの彼にはあってるかもしれない。

とにかくBorisが去り、我が家に夫がイギリスに戻ってきた。また一つの新しい時代が始まろとしている。

インド人の活躍

最近インド人ってすごいと言うか、インドの力強さを感じる機会が多い。

経済成長を続けているインド、人口の多さも手伝ってこのままいくと2050年には国民総生産が世界第2位になるだろうと予測されている。

英国の支配が約200年も続いたインド。第二次世界大戦後の1950年代から職を求めてインドから多くの人がイギリスに移民してきた。

今その人たちの子孫である2世、3世は英国の各界で活躍している。

現内閣では大蔵大臣に当たるChancellor of the Exchequerはインド系のRishi Sunak、内務大臣に当たるHome SecretaryはPriti Patelもインド系英国人。そして病院や歯医者に行くとインド系のお医者さんがとても多いのも事実。

イギリスにはインド国籍を保持し、インド国外に居住する在外インド人とインド系移民で非インド国籍になった非移住インド人とその子孫のインド系英国人がいる。

私が感じているのは最近在外インド人が増えているって事。

私の次女が通う大学UCLにも在外インド人、インド系英国人が多く、娘にも在外インド人、インド系英国人の友達がいる。それらの友達と写っている写真を私に見せながら「この子は南アフリカ生まれ、この子はドイツ生まれ、この子はドバイ出身、この子はイギリスのレデイング生まれ、このこの子だけがニューデリー生まれのインド人」と言う。みんな人種的にはみんなインド人なのに国籍がまちまちなところが面白い!

そしてまた最近インドの活躍がすごいなーと思わる事に、私が働いている学校にもインド人の転校生が増えてきた事実と、その子たちの親のほとんどが金融関係の仕事でロンドンにやってきて、その子たちの算数能力がすごく高い事。

いろんなワークショップで学校にやってくる人の大多数がインド系英国人であったり、中国人と同様イギリスのアカデミックな世界でインド人の活躍が多いと言う印象がある。

私の同僚もインド系カナダ人で、彼女のご主人はインド系イギリス人。彼女のご両親は80年代にインドのパンジャーブからカナダのトロントに移住した。面白いのはその同僚の娘は人種的には100%インド人だけれども、自分をカナダ人と認識しているのに対し、うちのクラスの両親ともにインド系イギリス人の子供は自分はインド人と認識している事。各家庭でどれだけインドの伝統文化を子供に教えているかで、各自のインド人意識が変わってくるもんなんだろう。

でも確実にどのインド系の人も食事はインドの文化を大切にしている気がする。私が人生で出会ったインド人はみんなインド料理、自分の郷土料理を大切にしている。

イギリスのインド、パキスタン、バングラデシュレストラン、英国中のパブにいくと必ずメニューにあるチキンティカマサ。一説によると英国北部かスコットランドのグラスゴーあたりのインドレストランで、炭焼きタンドリーチキンにグレビーソースをかけるように注文してきた客に、対応に困ったシェフがトマトソースとスパイスをタンドリーチキンにかけたのが始まりと言われているが、このチキンティカマサラはイギリス生まれのインド料理で、今やイギリスの国民的料理の地位にある。

そんな話を娘としながら、久しぶりに日本料理を食べに行きつけのお店Eat Tokyoに行ってきたらびっくり。ウエイター、ウエイトレスの多くがインド人に変わっていた。きっと留学生のアルバイトなんだろうけれども、ちょっと前は中国人の学生がしていたこの仕事もインドの人に変わっているところに今の世界の動きを感じる。